出して笑つた。『浮世《ふせい》夢のごとし』――それに勝手な節を付けて、低声に長く吟じた時は、聞いて居る丑松も沈んで了つて、妙に悲しいやうな、可痛《いたま》しいやうな心地《こゝろもち》になつた。
『吟声|調《てう》を成さず――あゝ、あゝ、折角《せつかく》の酒も醒めて了つた。』
と敬之進は嘆息して、獣の呻吟《うな》るやうな声を出し乍ら歩く。丑松も憐んで、軈て斯う尋ねて見た。
『風間さん、貴方は何処迄行くんですか。』
『我輩かね。我輩は君を送つて、蓮華寺の門前まで行くのさ。』
『門前迄?』
『何故《なぜ》我輩が門前迄送つて行くのか、其は君には解るまい。しかし其を今君に説明しようとも思はないのさ。御互ひに長く顔を見合せて居ても、斯うして親《ちか》しくするのは昨今だ。まあ、いつか一度、君とゆつくり話して見たいもんだねえ。』
やがて蓮華寺の山門の前まで来ると、ぷいと敬之進は別れて行つて了つた。奥様は蔵裏《くり》の外まで出迎へて喜ぶ。車はもうとつくに。荷物は寺男の庄太が二階の部屋へ持運んで呉れた。台所で焼く魚のにほひは、蔵裏迄も通つて来て、香の煙に交つて、住慣《すみな》れない丑松の心に一種異様の
前へ
次へ
全486ページ中44ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング