自分との間には一種の関係があつて、それで面白くなくて引越すとでも思はれたら奈何《どう》しよう。あの愚痴な性質から、根彫葉刻《ねほりはほり》聞咎《きゝとが》めて、何故《なぜ》引越す、斯う聞かれたら何と返事をしたものであらう。そこがそれ、引越さなくても可《いゝ》ものを無理に引越すのであるから、何となく妙に気が咎《とが》める。下手なことを言出せば反つて藪蛇だ。『都合があるから引越す。』理由は其で沢山だ。斯う種々《いろ/\》に考へて、疑つたり恐れたりして見たが、多くの客を相手にする主婦の様子は左様《さう》心配した程でも無い。さうかうする中に、頼んで置いた車も来る。荷物と言へば、本箱、机、柳行李《やなぎがうり》、それに蒲団の包があるだけで、道具は一切一台の車で間に合つた。丑松は洋燈《ランプ》を手に持つて、主婦の声に送られて出た。
斯うして車の後に随《つ》いて、とぼ/\と二三町も歩いて来たかと思はれる頃、今迄の下宿の方を一寸振返つて見た時は、思はずホツと深い溜息を吐《つ》いた。道路《みち》は悪し、車は遅し、丑松は静かに一生の変遷《うつりかはり》を考へて、自分で自分の運命を憐み乍ら歩いた。寂しいと
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