たやうに元の席へ復《かへ》つた。
 一同帰り仕度を始めたのは間も無くであつた。男女の教員が敬之進を取囲《とりま》いて、いろ/\言ひ慰めて居る間に、ついと丑松は風呂敷包を提《ひつさ》げて出た。銀之助が友達を尋《さが》して歩いた時は、職員室から廊下、廊下から応接室、小使部屋、昇降口まで来て見ても、もう何処にも丑松の姿は見えなかつたのである。

       (五)

 丑松は大急ぎで下宿へ帰つた。月給を受取つて来て妙に気強いやうな心地《こゝろもち》にもなつた。昨日は湯にも入らず、煙草も買はず、早く蓮華寺へ、と思ひあせるばかりで、暗い一日《ひとひ》を過したのである。実際、懐中《ふところ》に一文の小使もなくて、笑ふといふ気には誰がならう。悉皆《すつかり》下宿の払ひを済まし、車さへ来れば直に出掛けられるばかりに用意して、さて巻煙草に火を点けた時は、言ふに言はれぬ愉快を感ずるのであつた。
 引越は成るべく目立たないやうに、といふ考へであつた。気掛りなは下宿の主婦《かみさん》の思惑《おもはく》で――まあ、この突然《だしぬけ》な転宿《やどがへ》を何と思つて見て居るだらう。何か彼《あの》放逐された大尽と
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