の娘と成つた以上は、奈何《どん》な辛いことがあらうと決して家《うち》へ帰るな。そこを勤め抜くのが孝行といふものだ。とまあ、賺《すか》したり励《はげま》したりして、無理やりに娘を追立てゝやつたよ。思へば可愛さうなものさ。あゝ、あゝ、斯ういふ時に先の家内が生きて居たならば――』
 敬之進の顔には真実と苦痛とが表れて、眼は涙の為に濡《ぬ》れ輝いた。成程、左様言はれて見ると、丑松も思ひ当ることがないでもない。あの蓮華寺の内部《なか》の光景《ありさま》を考へると、何か斯う暗い雲が隅のところに蟠《わだかま》つて、絶えず其が家庭の累《わづらひ》を引起す原因《もと》で、住職と奥様とは無言の間に闘つて居るかのやう――譬《たと》へば一方で日があたつて、楽しい笑声の聞える時でも、必ず一方には暴風雨《あらし》が近《ちかづ》いて居る。斯ういふ感想《かんじ》は毎日のやうに有つた。唯其は何処の家庭《うち》にも克《よ》くある角突合《つのづきあひ》――まあ、住職と奥様とは互ひに仏弟子のことだから、言はゞ高尚な夫婦喧嘩、と丑松も想像して居たので、よもや其雲のわだかまりがお志保の上にあらうとは思ひ設けなかつたのである。奥様
前へ 次へ
全486ページ中338ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング