は、いかにも町はづれの古い茶屋らしい。土間も広くて、日あたりに眠る小猫もあつた。寒さの為に身を潜《すく》め乍ら目を瞑つて居る鶏もあつた。
 薄い日の光は明窓《あかりまど》から射して、軒から外へ泄《も》れる煙の渦を青白く照した。丑松は茫然と思ひ沈んで、炉《ろ》に燃え上る『ぼや』の焔《ほのほ》を熟視《みつ》めて居た。赤々とした火の色は奈何《どんな》に人の苦痛を慰めるものであらう。のみならず、強ひて飲んだ地酒の酔心地から、やたらに丑松は身を慄《ふる》はせて、時には人目も関はず泣きたい程の思に帰つた。あゝ声を揚げて放肆《ほしいまゝ》に泣いたなら、と思ふ心は幾度起るか知れない。しかし涙は頬を霑《うるほ》さなかつた――丑松は嗚咽《すゝりな》くかはりに、大きく口を開いて笑つたのである。
『あゝ。』と敬之進は嘆息して、『世の中には、十年も交際《つきあ》つて居て、それで毎時《いつでも》初対面のやうな気のする人も有るし、又、君のやうに、其様《そんな》に深い懇意な仲で無くても、斯うして何もかも打明けて話したい人が有る。我輩が斯様《こん》な話をするのは、実際、君より外に無い。まあ、是非君に聞いて貰ひたいと思ふ
前へ 次へ
全486ページ中334ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング