煙草のむことを覚えた程の年若な準教員なぞは、まだ前途《さき》が長いところからして楽しさうにも見えるけれど、既に老朽と言はれて髭ばかり厳《いかめ》しく生えた手合なぞは、述懐したり、物羨みしたりして、外目《よそめ》にも可傷《いたは》しく思ひやられる。一月の骨折の報酬《むくい》を酒に代へる為、今茲に待つて居るやうな連中もあるのであつた。
丑松は敬之進と一緒に職員室へ行かうとして、廊下のところで小使に出逢つた。
『風間先生、笹屋の亭主が御目に懸りたいと言つて、先刻《さつき》から来て待つて居りやす。』
不意を打たれて、敬之進はさも苦々しさうに笑つた。
『何? 笹屋の亭主?』
笹屋とは飯山の町はづれにある飲食店、農夫の為に地酒を暖めるやうな家《うち》で、老朽な敬之進が浮世を忘れる隠れ家といふことは、疾《とく》に丑松も承知して居た。けふ月給の渡る日と聞いて、酒の貸の催促に来たか、とは敬之進の寂しい苦笑《にがわらひ》で知れる。『ちよツ、学校まで取りに来なくてもよささうなものだ。』と敬之進は独語《ひとりごと》のやうに言つた。『いゝから待たして置け。』と小使に言含めて、軈《やが》て二人して職員室へと
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