りて、赤々と鮮明《あざやか》に読まれる自分の認印の上へ、右からも左からも墨黒々と引いた。
『斯うして置きさへすれば大丈夫。』――丑松の積りは斯うであつた。彼の心は暗かつたのである。思ひ迷ふばかりで、実は奈何《どう》していゝか解らなかつたのである。古本屋を出て、自分の為《し》たことを考へ乍ら歩いた時は、もう哭《な》きたい程の思に帰つた。
『先生、先生――許して下さい。』
と幾度か口の中で繰返した。其時、あの高柳に蓮太郎と自分とは何の関係も無いと言つたことを思出した。鋭い良心の詰責《とがめ》は、身を衛《まも》る余儀なさの弁解《いひわけ》と闘つて、胸には刺されるやうな深い/\悲痛《いたみ》を感ずる。丑松は羞《は》ぢたり、畏《おそ》れたりしながら、何処へ行くといふ目的《めあて》も無しに歩いた。
(五)
一ぜんめし、御酒肴《おんさけさかな》、笹屋、としてあるは、かねて敬之進と一緒に飲んだところ。丑松の足は自然とそちらの方へ向いた。表の障子を開けて入ると、そここゝに二三の客もあつて、飲食《のみくひ》して居る様子。主婦《かみさん》は流許《ながしもと》へ行つたり、竈《かまど》の前
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