られなかつた。郡視学は最早《もう》堪《こら》へかねるといふ風で、
『私は是で多忙《いそが》しい身体です。何か仰ることがあるなら、ずん/\仰つて下さい。』
 丑松は見るに見かねた。
『風間さん、其様《そんな》に遠慮しない方が可《いゝ》ぢや有ませんか。貴方は退職後のことを御相談して頂きたいといふんでしたらう。』斯う言つて、軈《やが》て郡視学の方へ向いて、『私から伺ひます。まあ、風間さんのやうに退職となつた場合には、恩給を受けさして頂く訳に参りませんものでせうか。』
『無論です、そんなことは。』と郡視学は冷かに言放つた。『小学校令の施行規則を出して御覧なさい。』
『そりやあ規則は規則ですけれど。』
『規則に無いことが出来るものですか。身体が衰弱して、職務を執るに堪へないから退職する――其を是方《こちら》で止める権利は有ません。然し、恩給を受けられるといふ人は、満十五ヶ年以上在職したものに限つた話です。風間さんのは十四ヶ年と六ヶ月にしかならない。』
『でも有ませうが、僅か半歳のことで教育者を一人御救ひ下さるとしたら。』
『其様《そん》なことを言つて見た日にやあ際涯《さいげん》が無い。何ぞと言ふ
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