》は、時世の為に置去にされた、老朽な小学教員の一人。丑松や銀之助などの若手に比べると、阿爺《おやぢ》にしてもよい程の年頃である。黒木綿の紋付羽織、垢染《あかじ》みた着物、粗末な小倉の袴を着けて、兢々《おづ/\》郡視学の前に進んだ。下り坂の人は気の弱いもので、すこし郡視学に冷酷な態度《やうす》が顕《あらは》れると、もう妙に固くなつて思ふことを言ひかねる。
『何ですか、私に用事があると仰《おつしや》るのは。』斯う催促して、郡視学は威丈高《ゐたけだか》になつた。あまり敬之進が躊躇《ぐづ/\》して居るので、終《しまひ》には郡視学も気を苛《いら》つて、時計を出して見たり、靴を鳴らして見たりして、
『奈何《どう》いふ御話ですか。仰つて見て下さらなければ解りませんなあ。』
 もどかしく思ひ乍ら椅子を離れて立上るのであつた。敬之進は猶々《なほ/\》言ひかねるといふ様子で、
『実は――すこし御願ひしたい件《こと》が有まして。』
『ふむ。』
 復《ま》た室の内は寂《しん》として暫時《しばらく》声がなくなつた。首を垂れ乍ら少許《すこし》慄《ふる》へて居る敬之進を見ると、丑松は哀憐《あはれみ》の心を起さずに居
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