唇《くちびる》にあらはれる若々しい微笑《ほゝゑみ》を――あゝ、あゝ、記憶ほど漠然《ぼんやり》したものは無い。今、思ひ出す。今、消えて了ふ。丑松は顕然《はつきり》と其人を思ひ浮べることが出来なかつた。


   第拾参章

       (一)

『御頼申《おたのまう》します。』
 蓮華寺の蔵裏《くり》へ来て、斯う言ひ入れた一人の紳士がある。それは丑松が帰つた翌朝《あくるあさ》のこと。階下《した》では最早《もう》疾《とつく》に朝飯《あさはん》を済まして了つたのに、未だ丑松は二階から顔を洗ひに下りて来なかつた。『御頼申します。』と復《ま》た呼ぶので、下女の袈裟治は其を聞きつけて、周章《あわ》てゝ台処の方から飛んで出て来た。
『一寸伺ひますが、』と紳士は至極丁寧な調子で、『瀬川さんの御宿は是方様《こちらさま》でせうか――小学校へ御出《おで》なさる瀬川さんの御宿は。』
『左様《さう》でやすよ。』と下女は襷《たすき》を脱《はづ》し乍ら挨拶した。
『何ですか、御在宿《おいで》で御座《ござい》ますか。』
『はあ、居なさりやす。』
『では、是非御目に懸りたいことが有まして、斯ういふものが伺ひましたと、
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