労なぞを知らない人である。さすが心の表情は何処《どこ》かに読まれるもので――大きな、ぱつちりとした眼のうちには、何となく不安の色も顕《あらは》れて、熟《じつ》と物を凝視《みつ》めるやうな沈んだところも有つた。どうかすると、女は高柳の耳の側へ口を寄せて、何か人に知れないやうに私語《さゝや》くことも有つた。どうかすると又、丑松の方を盗むやうに見て、『おや、彼の人は――何処かで見掛けたやうな気がする』と斯う其眼で言ふことも有つた。
 同族の哀憐《あはれみ》は、斯の美しい穢多の女を見るにつけても、丑松の胸に浮んで来た。人種さへ変りが無くば、あれ程の容姿《きりやう》を持ち、あれ程|富有《ゆたか》な家に生れて来たので有るから、無論相当のところへ縁付かれる人だ――彼様《あん》な野心家の餌《ゑば》なぞに成らなくても済《す》む人だ――可愛さうに。斯う考へると同時に、丁度女も自分と同じ秘密を持つて居るかと思ひやると、どうも其処が気懸りでならない。よしんば先方《さき》で自分を知つて居るとしたところで、其が奈何《どう》した、と丑松は自分で自分に尋ねて見た。根津の人、または姫子沢のもの、と思つて居るなら自分に取
前へ 次へ
全486ページ中248ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング