めた》い戦慄《みぶるひ》が全身を伝つて流れ下る。さあ、丑松もすこし躊躇《ためら》はずには居られなかつた。『先生、先生』と口の中で呼んで、どう其を切出したものかと悶《もが》いて居ると、何か目に見えない力が背後《うしろ》に在つて、妙に自分の無法を押止めるやうな気がした。
『忘れるな』とまた心の底の方で。

       (二)

『瀬川君、君は恐しく考へ込んだねえ。』と蓮太郎は丑松の方を振返つて見た。『時に、大分後れましたよ。奈何《どう》ですか、少許《すこし》急がうぢや有ませんか。』
 斯う言はれて、丑松も其後に随《つ》いて急いだ。
 間も無く二人は連に追付いた。鳥のやうに逃げ易い機会は捕まらなかつた。いづれ未《ま》だ先輩と二人ぎりに成る時は有るであらう、と其を丑松は頼みに思ふのである。
 日は次第に高くなつた。空は濃く青く透《す》き澄《とほ》るやうになつた。南の方《かた》に当つて、ちぎれ/\な雲の群も起る。今は温暖《あたゝか》い光の為に蒸《む》されて、野も煙り、岡も呼吸し、踏んで行く街道の土の灰色に乾く臭気《にほひ》も心地《こゝろもち》が好い。浅々と萌初《もえそ》めた麦畠は、両側に連つて
前へ 次へ
全486ページ中202ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング