。異《かは》つた土地で知るものは無し、強《し》ひて是方《こちら》から言ふ必要もなし、といつたやうな訳で、終《しまひ》には慣れて、少年の丑松は一番早く昔を忘れた。官費の教育を受ける為に長野へ出掛ける頃は、たゞ先祖の昔話としか考へて居なかつた位で。
 斯ういふ過去の記憶は今丑松の胸の中に復活《いきかへ》つた。七つ八つの頃まで、よく他の小供に調戯《からか》はれたり、石を投げられたりした、其|恐怖《おそれ》の情はふたゝび起つて来た。朦朧《おぼろげ》ながらあの小諸の向町に居た頃のことを思出した。移住する前に死んだ母親のことなぞを思出した。『我は穢多なり』――あゝ、どんなに是一句が丑松の若い心を掻乱《かきみだ》したらう。『懴悔録』を読んで、反《かへ》つて丑松はせつない苦痛《くるしみ》を感ずるやうになつた。


   第弐章

       (一)

 毎月二十八日は月給の渡る日とあつて、学校では人々の顔付も殊《こと》に引立つて見えた。課業の終を告げる大鈴が鳴り渡ると、男女《をとこをんな》の教員はいづれも早々に書物を片付けて、受持々々の教室を出た。悪戯盛《いたづらざか》りの少年の群は、一時に溢れて、
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