こと》に彼の夫婦は早く結婚した。まだ丑松が師範校の窓の下で歴史や語学の研究に余念も無い頃に、もう彼の若い夫婦は幼いものに絡《まと》ひ付かれ、朝に晩に『父さん、母さん』と呼ばれて居たのであつた。
 斯《か》ういふ過去の歴史を繰返したり、胸を踊らせたりして、丑松は坂を上つて行つた。山の方から溢《あふ》れて来る根津川の支流は、清く、浅く、家々の前を奔《はし》り流れて居る。路傍《みちばた》の栗の梢《こずゑ》なぞ、早や、枯れ/″\。柿も一葉を留めない程。水草ばかりは未だ青々として、根を浸すありさまも心地よく見られる。冬籠《ふゆごもり》の用意に多忙《いそが》しい頃で、人々はいづれも流のところに集つて居た。余念も無く蕪菜《かぶな》を洗ふ女の群の中に、手拭に日を避《よ》け、白い手をあらはし、甲斐々々《かひ/″\》しく働く襷掛《たすきが》けの一人――声を掛けて見ると、それがお妻で、丑松は斯の幼馴染の様子の変つたのに驚いて了《しま》つた。お妻も亦た驚いたやうであつた。
 其日はお妻の夫も舅《しうと》も留守で、家に居るのは唯|姑《しうとめ》ばかり。五人も子供が有ると聞いたが、年嵩《としかさ》なのが見えないは
前へ 次へ
全486ページ中182ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング