ろもち》には一時間余も眠つたらしい。戸の外には時雨《しぐれ》の降りそゝぐ音もする。起き直つて、買つて来た本の黄色い表紙を眺め乍ら、膳を手前へ引寄せて食つた。飯櫃《おはち》の蓋を取つて、あつめ飯の臭気《にほひ》を嗅《か》いで見ると、丑松は最早《もう》嘆息して了つて、そこ/\にして膳を押遣《おしや》つたのである。『懴悔録』を披《ひろ》げて置いて、先づ残りの巻煙草《まきたばこ》に火を点けた。
 この本の著者――猪子蓮太郎の思想は、今の世の下層社会の『新しい苦痛』を表白《あらは》すと言はれて居る。人によると、彼男《あのをとこ》ほど自分を吹聴《ふいちやう》するものは無いと言つて、妙に毛嫌するやうな手合もある。成程《なるほど》、其筆にはいつも一種の神経質があつた。到底蓮太郎は自分を離れて説話《はなし》をすることの出来ない人であつた。しかし思想が剛健で、しかも観察の精緻《せいち》を兼ねて、人を吸引《ひきつ》ける力の壮《さか》んに溢《あふ》れて居るといふことは、一度其著述を読んだものゝ誰しも感ずる特色なのである。蓮太郎は貧民、労働者、または新平民等の生活状態を研究して、社会の下層を流れる清水に掘りあて
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