して其とは自白《うちあ》けるな、一旦の憤怒《いかり》悲哀《かなしみ》に是《この》戒《いましめ》を忘れたら、其時こそ社会《よのなか》から捨てられたものと思へ。』斯う父は教へたのである。
一生の秘訣とは斯の通り簡単なものであつた。『隠せ。』――戒はこの一語《ひとこと》で尽きた。しかし其頃はまだ無我夢中、『阿爺《おやぢ》が何を言ふか』位に聞流して、唯もう勉強が出来るといふ嬉しさに家を飛出したのであつた。楽しい空想の時代は父の戒も忘れ勝ちに過ぎた。急に丑松は少年《こども》から大人に近《ちかづ》いたのである。急に自分のことが解つて来たのである。まあ、面白い隣の家から面白くない自分の家へ移つたやうに感ずるのである。今は自分から隠さうと思ふやうになつた。
(四)
あふのけさまに畳の上へ倒れて、暫時《しばらく》丑松は身動きもせずに考へて居たが、軈《やが》て疲労《つかれ》が出て眠《ね》て了《しま》つた。不図目が覚めて、部屋の内《なか》を見廻した時は、点《つ》けて置かなかつた筈の洋燈《ランプ》が寂しさうに照して、夕飯の膳も片隅に置いてある。自分は未だ洋服の儘《まゝ》。丑松の心地《こゝ
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