、牧夫をして、烏帽子《ゑぼし》ヶ|嶽《だけ》の麓《ふもと》に牛を飼つて、隠者のやうな寂しい生涯《しやうがい》を送つて居る。丑松はその西乃入《にしのいり》牧場を思出した。その牧場の番小屋を思出した。
『阿爺《おとつ》さん、阿爺さん。』
 と口の中で呼んで、自分の部屋をあちこち/\と歩いて見た。不図《ふと》父の言葉を思出した。
 はじめて丑松が親の膝下《しつか》を離れる時、父は一人息子の前途を深く案じるといふ風で、さま/″\な物語をして聞かせたのであつた。其時だ――一族の祖先のことも言ひ聞かせたのは。東海道の沿岸に住む多くの穢多の種族のやうに、朝鮮人、支那人、露西亜《ロシア》人、または名も知らない島々から漂着したり帰化したりした異邦人の末とは違ひ、その血統は古《むかし》の武士の落人《おちうど》から伝《つたは》つたもの、貧苦こそすれ、罪悪の為に穢れたやうな家族ではないと言ひ聞かせた。父はまた添付《つけた》して、世に出て身を立てる穢多の子の秘訣――唯一つの希望《のぞみ》、唯一つの方法《てだて》、それは身の素性を隠すより外に無い、『たとへいかなる目を見ようと、いかなる人に邂逅《めぐりあ》はうと決
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