がれ。』
 これが下宿の人々の最後に揚げた凱歌であつた。
 丑松がすこし蒼《あを》ざめた顔をして、下宿の軒を潜つて入つた時は、未だ人々が長い廊下に群《むらが》つて居た。いづれも感情を制《おさ》へきれないといふ風で、肩を怒らして歩くもあり、板の間を踏み鳴らすもあり、中には塩を掴んで庭に蒔散《まきち》らす弥次馬もある。主婦は燧石《ひうちいし》を取出して、清浄《きよめ》の火と言つて、かち/\音をさせて騒いだ。
 哀憐《あはれみ》、恐怖《おそれ》、千々の思は烈しく丑松の胸中を往来した。病院から追はれ、下宿から追はれ、其残酷な待遇《とりあつかひ》と恥辱《はづかしめ》とをうけて、黙つて舁がれて行く彼《あ》の大尽の運命を考へると、嘸《さぞ》籠の中の人は悲慨《なげき》の血涙《なんだ》に噎《むせ》んだであらう。大日向の運命は軈《やが》てすべての穢多の運命である。思へば他事《ひとごと》では無い。長野の師範校時代から、この飯山に奉職の身となつたまで、よくまあ自分は平気の平左で、普通の人と同じやうな量見で、危いとも恐しいとも思はずに通り越して来たものだ。斯《か》うなると胸に浮ぶは父のことである。父といふのは今
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