ニもかなはなかつた。といふのは餘りに深く蒸した庭の苔は胸に迫つて來て、わたしたちの凝視を妨げもしたからであつた。人間の親和力を茶の道に結びつけた昔の人はこんなところで深く物を考へたものかなどと、とりとめもないことを想像しながら、その庵を辭した。歸路には往きと同じ道をとつて、新開地らしい町の出來たところを車の上から見て通り過ぎた。洛北の郊外も今は激しく移り變りつゝある。
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十二日。
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ゆうべ家内を連れて三條の大橋近くまで歩いて見た。
京都に見るべきものと言へば、何人《なんぴと》も先づこの都會に多い寺院に指を屈するが、それらの多くは長い年月の間に改築されたものであり、原形のまゝな記念の建築物の殘存するものは少數にしか過ぎないと聞く。現にわたしたちが見て來た大徳寺の眞珠庵も改築されたものの一つであつた。これは京都が幾度か兵亂の巷となつて、その度に、町も建物も改まつたことを語るものであらう。物語に見る朱雀大路のあとなぞも今は尋ぬべくもない。自分一個としては、この都會に多い寺院よりも、むしろ民家や商家の方に心をひかれる。その民家、商家に見つけるものの感じは、概して簡素で、重厚だ。
今度京都に來て見て意外にめづらしく思つたことはいろ/\あるが、衣、食、住、共に禪家の意匠から發したものの多く殘つてゐることも、その一つだ。遠い昔の遣唐使が支那から持ち來したものの深い影響を奈良に與へたことを思へば、多くの有爲な僧侶が宋時代あたりの支那からこの京都に持ち來したものの多いといふことも、不思議はないかも知れない。
すこし風邪の氣味で、けふは一日千切屋に暮した。青年時代の昔に、江州の方から旅して來て、京都魚の棚、油の小路といふところに泊つて見た日のことが胸に浮んで來る。佛蘭西から旅の歸りに激しく疲れたからだを休めて行つたのも、鴨川の河原から來る照りかへしの暑い日であつたことなぞも浮んで來る。家内は晝過ぎから和辻君の家へ行つて、夕景に戻つて來た。細君や信子さんも若王寺から話しに來た。
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十三日。
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和辻君の周旋で、午前に二條城のあとを見ることが出來た。君等とわたしたち兩人は、思ひがけない人に案内されて、今は離宮となつてゐるあの歴史的な建築物の内の深さに入つて見た。午後に、和辻君等に別れを告げた。三日の滯在は短かつたが、わたしたちは君の家族をこの地に見るだけにも滿足した。南の一方に開けて、東と北と西とに山を負ふ盆地の地勢をなした京都の市街の一部を君等が住居の二階から、又、樂しい樹蔭の多い若王寺の裏山の位置から望み見るだけにも滿足した。せめてこの都會に北西の山の間が開けてゐたら、とは今度來て見て、胸に浮べたことだ。この夏季の熱と光とを防ぐために、京都人は二階を低くし、窓を狹くし、格子を深くし、壁を厚くし、部屋を暗くして住むとも聞く。これを知つて見ると、わたしは今まで漠然としか抱いてゐなかつた吾國の古典にある季節の感じを改めてかゝらねばならないやうな氣もする。もう一度清少納言なぞの書きのこしたものをあけて見たら、京都の夏がいろ/\とあの草紙の中に見つけられて、例へば結縁《けちえん》の説教を聽きに行つた日の暑さの描寫なぞも、今までよりはつきりと感じられるであらうと思ふ。兎に角、わたしたちは關東の氣分で京都にある一切のものを呑み込み易い。やさしい京都言葉ですら、その實弱々しいものではない。よく聽いて見れば、一語々々張りのある抑揚の響きをもつてゐる。これほどのアクセントも東京言葉にはないもののやうだ。午後の四時頃、わたしたちは彦根泊りで京都を立つた。大津、石山、草津、安土――わたしに取つては四十年前の旅の記憶の忘れられずにある驛々を汽車の窓から見て通り過ぎた。
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十四日。
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彦根滯在。
曾て青年時代の馬場君がこの地の中學に教鞭を執つたことがあり、關ヶ原を通り過ぎて上京する度に、その旅の話のよく出たことなぞが思ひ出される。わたしたちの泊つた樂々園といふは、もと井伊氏の下屋敷とか。古城のあとの一區域にその下屋敷があつて、庭も廣く、つゝじ咲き殘り、黄ばんだ六月の花は眼にある若草を一面に明るく見せてゐた。城として好いところは、城址としても好いといふある人の言葉もわたしたちを欺かない。ちやうど旅客もすくない時に泊り合せて、多くの部屋を見て※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]ると、西に湖水の眺望がひらけて、青い蘆を渡つて來る風の涼しい座敷もある。まるまげに髮を結つた女中が來ての話に、神戸邊のある年老いた商人を一夜の客として泊めて見たところ、その人は東京への汽車の往き還りにいつかこの彦根に泊つて見たいと心掛けながら、漸く六十年の間に一度の思ひを果すことが出來たと語つたとか。さう言へば、自分とてもやはりその一人だ。
二條城のあとを見た眼で、この彦根の城址を見ると、往時三十五萬石の雄藩として京都に對してゐた井伊氏の歴史上の位置を想ひやることが出來る。ともあれ、あの杜子美の詩にある『國破山河在、城春草木深』とは文字通りこゝに當てはまるやうなところだ。尾張、美濃のやうに今は工業の發達した地方に比べると、こゝは依然たる農業國であるが、これはこれでいゝ。こゝで味ふ彦根の米もうまい。のみならず、青年時代の旅の記憶につながれてゐるためかして、わたしは近江の自然に特別の親しみを覺える。この湖畔に旅の日を送つて、蛙の聲を聽くやうな機會がもう一度自分にあるかなぞと、そんなことがしきりに思はれた。
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十五日。
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歸京。
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十六日。
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幸ひと旅の間は一日も降られなかつた。けふは雨になつた。
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     力餅

 力餅といふものは大福に製して賣るところもあるが、多くは餡ころに造つて、旅する人の助けとする。先頃信州南佐久の臼田まで行かうと思ひ立つことがあつて、家族のものを引き連れ東京を出ようとしたが、折柄利根川増水の噂で信越線もにはかに不通の時であつた。餘儀なく中央線で下諏訪の方へ遠※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りし、途中汽車の窓から音に聞えた甲州の荒川を眺め、連日降雨の後とて川添の稻田の中には濁流のために洗はれた跡などの眼にうつるのも心許なく思ひながら、同夜下諏訪の龜屋方に一泊、翌朝は自動車で和田峠を越えた。あの峠の上まで行くと、西餅屋といふが一軒殘つて、そこで力餅を賣つてゐた。かくいふ自分は少年期から青年期へ移りかける年頃に徒歩であの峠を越し、遠く山と山との間にひらけた空に淺間のけぶりのなびくのを望んだ記憶もある。多くの旅人が道中記をふところにして木曾街道を踏んだ昔は、いづれもあの峠の上の休茶屋に足を休めて行つた跡だ。

 おのれら一生の旅の間にはいくつかの峠も待つてゐる。空腹で險路の攀ぢがたいのは、滿腹でそれの出來ないのにひとしからう。いさゝかの力餅が、さういふ時のおのれらを力づけて呉れる。こんな力餅のことをこゝに持ち出して見るといふのも、他ではない。多くの立志傳中の人物が、發憤の逸話なぞを引き合ひに出すまでもなく、この世の旅の途中に、何等かの形で力餅を味はないものは、おそらく、なからうと思はれるからである。

 力はこの世に開放された祕密のごときものであらうか。單なる肉體的なものから、深い精神に充ちたものに至るまで、あらゆる姿に於いて力は人をひきつける。たゞめづらしい力持があるといふだけでも、人は眼をみはる。遊戲として力をたゝかはせるものがあれば、それだけでも人の眼をよろこばせる。

 金剛力といふべきものが人間の大きい體躯にのみ宿るとは限らないやうだ。むしろさういふすぐれた力の持主といふものは、背とてもあまり高くなく、どちらかと言へば小柄な人の方にあると聞くのもおもしろい。不思議な縁故から、わたしは、川越の隱居を通して眞庭流の劍客、故樋口十郎左衞門といふ人の平生をすこしばかり知る機會を持つたことがある。この劍道の達人は好きな蕎麥など人並はづれて食ひ、臺所に置く昔風な銅壺附きの二つ竈ぐらゐは樂々と持ち運び、夜中の半鐘に眼をさまして、それ火事だと聞きつける時は、明治初年の頃まで東京の町々の角にあつた木戸を飛び越えるくらゐの早業を平氣でして、まことに不思議な力の持主であつた。しかも平素それを人に誇る氣色もなかつたといふことで、人もまたこの一藝に達した劍客がおよそ何程の力を貯へてゐるものやら測りかねてゐたところ、ある日、ふとしたことから夫婦で爭つた際に、さすが曲者の正體をあらはした。
 十郎左衞門は寡默の人であつたから、口に出してさう爭はうとはしなかつたが、そのかはり對ひ合つて坐つてゐる細君の膝の下へ兩手をさし入れたかと思ふと、いつのまにか細君のからだは庭の眞中へ飛んでゐたといふ。しかもすこしも細君を傷つけることなしに。さういふ十郎左衞門その人がまた、至つて小柄、小造の男であつたとも傳へられる。

 ある人が來て、力も術にまで鍛へられるには種々な修業時代を通り過ぎるとの話が出た。騎馬の術にしても、普通の騎士の場合は別にして、動きのある馬上で槍でも使はうとするほどの武道者に取つては、先づ三年は木馬に跨る修業を要するといふ。あたかもこれは、ある地方に住む蕃人等が細く鋭い漁具の鎗を用意して、流水の中に動く魚を突きさす前に、先づ西瓜の類を坂にころがし、それを突きさす修業を積むの類であらうか。
 同じ人が來て、ある病弱者が山に入り捨身になつて病と戰つた揚句に不思議な力を獲得して還つたといふ話をわたしの許に置いて行つた。弱い人間もそこまで行けば、果實ぐらゐの食に露命をつなぎとめて、人並以上の力を囘復することも出來るものか。病める身が追々と丈夫になり、高い木の枝ぐらゐには飛びつけるやうになり、しまひには重い岩石をも動かすほどの力の持主となり得たといふことだ。

 世には天性肉體の力にすぐれたものもある。さういふ力の持主はどこの國でも人に騷がれると見える。佛蘭西あたりの少年の讀本の中にもすぐれた力持のことが面白く語つてあつたやうに覺えてゐる。どこそこの家には代々力持が出るといふやうな話のあるのを見ても、肉體の力は遺傳するものらしい。その力が婦人に傳はると、その人一代かぎりで絶えるとも聞く。川越の隱居が實母に當る人はわたしも逢つたことのないおばあさんであるが、めづらしい力を持つた娘のことがそのおばあさんの生前の咄しの中によく出たとか。飛んだ器量好しで、まことに愛くるしく見えるところから、どこかの商家にその娘が奉公してゐた頃、うるさくからかひに來る店の若者もすくなくなかつたといふ。ある日のこと、その娘は臺所を掃除しようとして、そこに有り合ふ大きな重い酒樽を片手に持ちあげ、いかにも無造作にその下を掃いてゐた。その力に恐れをなしてか、それぎり娘のところへからかひに來る若者もなくなつたともいふ。こんな愛くるしい娘の小さな肉體に宿つためづらしい力は、おそらく親讓りのものであつたらう。

 すでに肉體の力が遺傳するものとすれば、精神力といふべきものも祖先から傳はりもしようし、子孫に遺りもしよう。それの絶えることもあらう。また、それの再び生きるといふこともあらう。

 思はずわたしはこんなことを書きつけて見た。それにつけても、又聞きにしたある僧の話を思ひ出す。その人が十歳ばかりの少年の身をある寺の和尚の許に寄せてゐた頃、思ひがけない問を出されて面喰つたことがあつたといふ。和尚尋ねて曰く、『お前はどうしたら俺のやうな和尚になれると考へるか』と。そこで少年が答へた。『飯《まゝ》食つて寢て、飯食つて寢て、大きくなれば和尚さまのやうになれます』と。その答へをきくと、和尚はいきなり鞭を持つて來て少年の頭をなぐりつけたとの話である。この少年は十歳ばかりの年頃に一生忘れがたいやうな力餅を味はつたのであらう。そして、和尚から貰つた力でも、長い生涯の間にはそれを自分のも
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