フに變へることも出來たのであらう。さう思ふと、力は不思議なものだ。
三義鳩の記
平和の使者ともいふべき姿をもつて戰亂の空に迷ひ、兵火と砲彈とのために廢墟のやうになつた市街の建造物の間に見出されたといふ一羽の鳩の風情は、かの佛蘭西近代の畫家シャ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ンヌが好んで描いた壁畫の中にでも持つて行つて見たいほどのものである。ましてそれの見出されたのは、黄浦口に臨む上海《シャンハイ》で、東洋のマルセエユにも譬へたいところであり、かの畫家の製作を思ひ出させるやうな活きた歴史のかず/\を語る國際的の港だからである。
この鳩を見出した西村眞琴君は昨年一月より三月に亙る上海市街戰の空氣の中で、大阪毎日及び東京日日新聞社を代表し陣中慰問使としてかの地に赴いた人であると聞く。君がそんな小さなものを見つけた深い印象は忘れがたいほどのものであつたと見え、どうかして養ひたいとの念から、困難な旅の中にもその事に心を碎き、國にまで伴なひ歸つたといふことである。當時に於ける上海の風物の薄暗い空氣に包まれた中で、何等かの安らかさを君等にさゝやき、陣中愛撫の的となつたのも、この一羽の鳩であつたらう。
過ぐる日、西村君はわたしのもとに手紙を寄せられ、旅の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話をわたしに分ち、この鳩について何かわたしにも書きつけることを求められた。その手紙にはいろ/\なことが語つてある。當時の上海は十圓の金を投げ出しても豆一粒も手に入らないほどの死の街であつたから、君は食パンを豆の大きさにまるめ、僅かに命をつながせたとあり、青島《チンタオ》まで伴なひ歸つて漸く豆を與へ、大連まで來て高粱《カウリヤン》を與へることが出來たとある。君が國に歸つた時、この鳩を大毎の傳書鳩舍に同棲させたところ、何さま遠方の客であり、それに頭上にすこし毛立ちがしてゐて、異邦人扱ひを受けるらしいのに氣づいたが、その中に一羽友達が出來たから、早速この二羽を別居させるほどの心づかひをしたとある。當時事變講演會の催しがあつて君もしば/\引き出される毎に、君はこの鳩を伴なつて行つて、鳩同志の親善を大衆に説いたとある。惜しいことに、この鳩が死んで、君が家内中で藤の根に近くその死體を葬つたのは、昨年三月二十六日の君の誕生日を迎へた頃であつたともある。
三義とは、この鳩の名である。上海の三義里街に因《ちな》むところから、その名がある。陸戰隊長植松少將の命名にかかるものであるとか。ことしの三月二十六日には、また西村君の誕生日がめぐつて來た。ちやうど亡き鳩を葬つた日の一周年にあたり、村の人が集まつてその塚に小さい碑を立てた。上海には縁故の深い重光公使の筆によつて、その碑に、『三義之塚』の文字が記された。すべてこれらのことは君からの消息にくはしい。
時を感じては花に涙をそゝぎ、別れを惜しんでは鳥にも心を驚かすとやら。あの多感な詩人の言葉は君をもうなづかしめるであらうと信ずる。おそらく、その鳩塚に近い藤の根にも、またことしの春がめぐつて來よう。緑はそひ、生命は活きかへつて、その碑の上に再び他日の蔭を落すことであらう。これは小さなものの名殘、短かくはあるがおのづからな親善と愛との形見である。
煙草
私の煙草好きも久しいものだが、客でもあつて、この私に向つて、君はその敷嶋を一日に幾袋あけるかと聞かれる時はつらい。雇ひ入れた下女なぞが思ひの外な始末のいゝ人で、私の紙卷煙草の吸殼をひそかに貯へて置いて、藪入りの日にでもそれを里へ持ち歸らうとする時は、猶更つらい。好きなものは兎角隱したい。
破屋
[#天から10字下げ]散文にて譯し試みたる楊岐の詩
われ住めば、いつしか壁もまばらに、滿床こと/″\くめづらしき雪の珠を散らしぬ。時には頸を縮めて暗き涙も飮みたれど、古人が樹下のすみかを憶ひては心をひるがへしたり。
文章を學ぶもののために
年若くして文章の道に出發するほどのものは、先づ自分の持つものを粗末にしないことこそ願はしい。言葉の感覺には敏《さと》くありたい。その感覺に鈍くては文章の道には到り得ない。失敗を恐れて、試みることを躊躇するやうなものも、またこの道を行き盡せない。われら幼少の頃には、食物なぞにも好き嫌ひが多かつたが、追々成人するにしたがつて何でも食へるやうになり、血氣さかんに食慾も進む年頃に達しては何を食つて見てもうまく、おほよその食物を選り好みするといふこともなかつた。さういふところを通り越してからは、むしろ食を減ずるやうになつたが、そのかはり食物の味は増して來た。さかんに多く食ふといふよりは、精しく味はつて食ふことの方に變つて來た。文章とてもその通り、さう若いうちから、噛みしめるやうな味を出さうとつとめなくとも、多く讀み、多く書き、そして多く忘れた後には、その人/\にそなはる味はおのづから出て來ると思ふ。文思、湧くがごとし。青春の時は先づさうありたい。
夜咄
市川團十郎の三十年忌が來た。妙な縁故で、わたしは芝居道に關係の深い人の家に自分の少年期から青年期を送つたから、あの名高い役者が貧しく骨の折れた時代を知つてゐるし、後には馬車で樂屋入りをした時代をも知つてゐるし、またあの人の藝を舞臺の上に見る機會も多かつた。あの人の生前に、ある日、議會の傍聽に出掛けて、歸つてから傍のものに話したといふ言葉は、又聞きではあるが今だにわたしの記憶に殘つてゐる。議員諸氏は平常の事を議するにも、あんな大きな聲を出してゐるが、もし非常時に出逢つたら、どんな大きな聲を出すつもりだらう、と團十郎は言つたとか。さすがに舞臺の人だ。その人の平常の心掛けもしのばれて、一見識ある言葉と思つた。
世阿彌もおもしろいことを言つた。この人は能樂の太夫であり、作者であり、七十二歳の老翁になつて佐渡ヶ島へ流されたといふ閲歴をもち、觀世流の源をなしたほどの昔の人ではあるが、この世阿彌の口傳書の中に、諸道の藝の祕密も、それをあらはしてしまへば、そんなに大したことでもないものである、しかしそれを大したことでもないと言つてしまふ人は、まだ藝の祕密を知らないからだ、と教へてある。この人の書きのこしたものを見ても、さう大きな聲で物が言つてない。能の舞臺ですることに文字の風情にあたることは何かと人に尋ねられた時、それはこまやかな稽古であると答へ、その風情こそいろ/\な働きとなる初めであると答へ、舞臺の上の身づかひといふのもその風情であると答へ、さらにそれを花の風情に譬へて、濕つてしまつてはおもしろくない、花の萎れたところが面白いのだ、とさう教へてある。世阿彌といふ人が眼のつけ方も、心の持ち方も、すべてこの類だ。
諸藝に達した人々は、こんなに小さなことを粗末にしない。大きな聲を出すことを知つて、小さな聲を出すことを知らない者は疲れる。大きく働くことを知つてゐても、小さく働くことを知らない者は退屈する。大きな言葉ばかりを知りながら、小さな言葉のあることを知らない者は悶える。
故福澤翁に、小出しの説がある。人に物を贈らうとするのに、一時に多く贈らうと思ふことは反つてよくない、假令《たとへ》少しづゝでもその折にふれて何度にも贈れといふことが、翁の書いたものに見える。物は小出しにせよと教へてあるのだ。小事をおろそかにしない人でなければ、かういふことは言へない。また、かういふところへ氣もつくまい。
うす暗い行燈や蝋燭をつけて夜を送つた昔には、それによく映る衣裳の色があつた。その行燈や蝋燭に替はる明るいランプの時代が來ると、曾てうす暗いところで美しく見えたものが、最早見られない。そこで衣裳の色が變り、風俗の好みも移る。今度はランプよりもつと明るい電燈の時代を迎へると、また/\流行の衣裳の色が變つて來た。近頃の婦人が夜の席に着る薄色の晴着なぞは、電燈時代を語つてゐないものはない。
わたしの側へ來て、この話をして見せた人がある。世の中の流行が變る前に、すでに燈火が變つてゐるのだ。わたしたちが日頃經驗することは、これに似たものが多い。早くその照光に氣のついた者は、あるひは流行の外に立つといふことも出來よう。いつまでもランプ時代と同じつもりでゐる者は、流行の輕薄を嘲るか、さもなければその後を追ひかけるのほかはあるまい。
老子
トルストイがその晩年に、老子の教を探し求めてゐたといふことは床しい。思想とは完成するにつれて殼を脱ぐやうなものではあるまいか。あらゆるものを見盡し、あらゆる試錬に耐へ、その志を弱くし、その骨を強くするところまで行つて、萬苦を經て後に思想無きに到つたやうな人が老子ではあるまいか。
パスカル
わたしはパスカルのやうな思想家で宗教的な生涯を送つた人が數學の天才で早い青年期に既に高遠な數理を考へた人であつたといふことに日頃深い興味を覺える。大地に堅く足をつけてかゝつた歐羅巴人が近代に根を張つたことの決して偶然でないことを想ひ見る。先づ生活力の基礎となるべき數理を會得することだ。眼前の事物にばかり囚はれないことだ。想像力を豐かにして、數の美を感知することだ。形、面、積、量、質、長さ、高さ、廣さ、深さ、厚さ、距離、位置、度數、速力、配合、組立等の持つ美を感知することだ。この數理の觀念と美の結合は、私達の生活を簡素にすることに役立ち、やがて新しい創造に向はせることになる。このことは建築や工藝ばかりでなく、文藝上の制作にも重要な働きをすると思ふ。(印度經典の文學がいかに無限大、無限小の想像に富むかを見よ。古人の設計になる茶室の簡素がいかに數量の美に基くかを見よ。)私の周圍には、すでにこのことを言ひ出した人もある。かうした時代に順應して、出來るだけ私達の生活を單純にするためには、數理をおろそかにしてはならない。
杜子美
[#ここから4字下げ]
玉露凋傷楓樹林
巫山巫峽氣蕭森
江間波浪兼[#レ]天涌
塞上風雲接[#レ]地陰
叢菊兩開他日涙
孤舟一繋故園心
寒衣處々催[#二]刀尺[#一]
白帝城高急[#二]暮砧[#一]
[#ここで字下げ終わり]
この詩、五句目にある兩開とは、兩年の秋に開くの意であり、他日の涙とは過ぎし日の涙の意である。昨年の秋に開いた菊が今年の秋にも開いて、過ぎし日の涙を催させたとの意である。六句目の故園を思ふ心にかけて孤舟といふことを言ひ出して來てあるのは、作者が山峽の間にゐて江流の涌き立つさまを眺めながら、一日も早く舟に乘つてその山峽を出たいと思ひ立つ時であつたからである。これは『秋興八首』としてある詩の一つで、作者は杜子美である。
わたしはまだ信濃の山の上の方にゐて、千曲川のスケッチなぞをつくつてゐた頃のことであつた。當時小諸義塾の塾主であつた木村熊二翁がこの詩をわたしに示し、特にその中の『叢菊兩開他日涙、孤舟一繋故園心』の二句を指摘して、いかにこの詩の作者が心の深い人であるかをわたしに言つて見せた。それが日頃自分の愛讀する杜詩であつたといふことにもわたしは心をひかれ、これを示した木村翁が自分とはずつと年齡も違へば學問の仕方もまるきり違つてゐることにも心をひかれた。わたしは自分と同じ杜詩の愛を思ひがけないところに見つけたやうな氣がして、それからは『秋興八首』を讀み返して見る度によく翁の生涯を思ひ出す。
青年時代にはそれほどはつきりとしなかつた杜詩の大きな背景、それらのものがこの節しきりとわたしの想像に上つて來る。言つて見れば、詩人としての杜子美は大きな現實主義者である。性格的にさう言へると思ふ。五十九歳で唐の來陽といふところに病死したといふその涙に滿ちた生涯が何よりの證據だ。さういふ點で、多分にロマンチックな要素をそなへてゐたあの李太白の質とはいちじるしい對照を見せる。杜詩の痛切な現實性は、一字一句の末にもあらはれてゐないではないが、それよりもこれらの詩の全體が語るものにこそ、まことの詩人らしさが窺はれると思ふ。
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