@ 芭蕉
芭蕉は六人ある兄妹の中の次男に生まれた。長兄との間に姉が一人あり、妹が三人あつたといふ。さういふ家族の中に成長したことも、少年期から青年期へかけての芭蕉には大切なことであつたらう。幼名金作、後に甚七郎、元服しての名を忠右衞門と言つた芭蕉が伊賀の山の中で送つた少年時代の記憶は、それがいろ/\な形となつて後年の句作の中にあらはれてゐるのではなからうかと思ふ。芭蕉の句には深い山の中の空氣を感じさせるものがあるが、わたしはそれを作者が少年時代や青年時代の記憶とひき離しては考へられないやうな氣もする。
父松尾與左衞門とは、どんな人であつたらう。主家藤堂氏とても、伊賀上野の代官として五千石を領したといふくらゐだから、當時にあつてそれほど大きな知行取りではなかつたらしい。宗房時代の芭蕉が若君の從士として、藤堂家に仕へ、そこに藤堂良忠のやうな人を見出したことは奇縁と言ふべきである。
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月の鏡小春に見るや目正月
あちこちや面々さばき柳髮
うかれけり人や初瀬の山ざくら
糸櫻こやかへるさの足もつれ
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芭蕉二十一歳から二十四歳頃へかけての青年期の句である。
若主人藤堂良忠は貞徳の流れを酌み、貞室と季吟とに師事し、談林派の宗因とも交り、自ら蝉吟と號したといふほどの人である。この人の伊賀上野の家中に與へた感化は大きいものであつたらう。當時の人の句を編んだものには、伊賀の作者三十六人を數へるといふ。芭蕉は二十三歳の頃に、この好い若主人を失つてゐる。この人の死が年若な芭蕉に取つて深い打撃であつたことは爭はれまい――假令、その遺骨を高野山に納めたなどの説はよく分らないまでも。
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降る音や耳もすうなる梅の雨
夕顏にみとるゝや身もうかりひよん
荻の聲こや秋風の口うつし
女夫鹿《めをしか》や毛に毛がそろふて毛むつかし
雲とへだつ友かや雁《かり》の生わかれ
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芭蕉二十四歳より二十九歳頃へかけての句である。
實に、句の姿はいろ/\に動いて、若い作者が精神の動搖のはげしさを感じさせる。あるひは貞室に行き、季吟に行き、あるひは宗因に行きして、暗いところに物を探り求めてゐたやうな芭蕉のことがわたしの想像に上つて來る。
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波の花と雪もや水のかへり花
この梅に牛も初音と鳴きつべし
富士の風や扇にのせて江戸土産
近江蚊屋汗やさゞ波夜の床
庭訓《ていきん》の往來誰が文庫より今朝の春
雨の日や世間の秋を堺町
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これは芭蕉が三十一歳より三十六歳の頃へかけての句である。
芭蕉がどうして江戸へ出るやうになつたかは明かでないが、これは伊賀上野の藤堂家を辭し、江戸に生活を送つた頃の作である。俳諧作者として漸く一家を成さうとする芭蕉が、いろ/\の意味で修業を重ねたのも、この頃であるらしい。
芭蕉とても伊賀時代から、いきなり野ざらしの境地に飛び込んだではない。いろ/\な人の世話になり、いろ/\な仕事にも關係して、江戸の市中に流寓してゐたらしいのもこの時代である。伊賀に歸省し、京都に赴き、歌道の奧儀について季吟から教へらるゝところの多かつたといふもまたこの時代である。
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夜ル竊《ひそか》ニ蟲は月下の栗を穿つ
いづく霽《しぐれ》傘を手にさげて歸る僧
盛りじや花に坐《そゞろ》浮法師ぬめり妻
夕顏の白ク夜ルの後架に紙燭とりて
櫓の聲波ヲ打て腸氷る夜やなみだ
髭風を吹て暮秋歎ズルハ誰ガ子ゾ
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これは三十七歳より三十九歳の頃にかけての句である。俳諧革新の意氣は、先づこの『虚栗《みなしぐり》』の破調となつてあらはれて來てゐる。其角その他の氣鋭な詩人の中心として、當時の芭蕉を想像して見ることもおもしろいと言へばおもしろいが、實はこれらの句、隨分危く、讀み返して見るとひや/\する。芭蕉にもこんな試錬の時代があつたかと思ひやられる。
しかし芭蕉には、すでに伊賀を出る頃から『雲とへだつ友かや雁の生わかれ』のやうに、一句の姿を聳え立つやうに仕立てる傾向がなくもない。この傾向は『虚栗』の時代にはげしいはけ口を見つけてゐると思ふ。かういふ傾向が作風の單調を破つて、あたかも山脈の骨のやうに、ずつと後年の圓熟した作の中にまじつて出て來てゐることも見逃せない。
よく見れば芭蕉には、この時代にすでに次のやうな句もある。
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雪の朝獨り干鮭《ほしか》を噛み得たり
芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉
枯枝に烏のとまりたるや秋の暮
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更にまた次のやうな句もある。
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はせを植てまづにくむ荻の二葉哉
あさがほに我は食《めし》くふをとこ哉
世にふるはさらに宗祇のやどり哉
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こんな風に芭蕉はまことの詩人らしい眼を開いて行つた。新しく興つた元祿の俳諧と、すでに先蹤のあつた天明の俳諧との相違も、そこにあると思ふ。わたしは芭蕉の青年期を振り返つて見て、この人にもこんな彷徨の時代があつたかと考へる。それほど周圍は暗かつたのだ。談林風の輕い滑稽はあつても、生氣の充實した好いユウモアに達し得たものはなかつたのだ。さういふ中で、芭蕉がいろ/\なものを振ひ捨てゝ、『猿蓑』の深さにまで詩の境地を進めて行つたあの不斷の努力と精進とを想ひ見ると、あれほど動搖の多かつたその青年時代もまたなつかしい。おそらく年若い頃の芭蕉が才氣にまかせて歩いた路はわたしたちの想像以上ではなかつたらうか。何程の精神の革新がそこに持ち來されたことだらう。さう想つて見ると、あの『一つぬいでうしろに負ひぬ』の更衣の吟も、たゞの旅路の口ずさみとは思はれない。
本居宣長
明治維新に對する本居宣長の位置は、あたかも佛蘭西革命に對するルウソオの位置に似てゐる。彼に『ヌウ※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ル・エロイズ』があれば、是に物のあはれの説があり、戀愛の説があるのも似てゐる。わたしは儒教風な男女關係の教に對して大膽に戀愛を肯定して見せた最初の人は明治年代の北村透谷だとばかり思つてゐたが、本居宣長の戀愛觀に接した時に、この自分の考へ方を改めなければならなかつた。この人の戀愛生活を探つて行つて見たら、どんな思ひがけないものが、出て來まいものでもあるまいといふ氣もする。兎もあれ、あのルウソオと殆んど時代を同じくして、東西符節を合せたやうに『自然に歸れ』と教へた人が吾國にも生れたといふことは、不思議なくらゐに思はれる。假令、その『自然』の内容に關しては、東西おのづから異なるところがあり、さう概括的には言つてしまへないまでも。
本居宣長は新しい時代を感知しそれに呼びかけ、又その道をあけたといふべき人で、徳川時代を見渡したところ近代人の父とも呼ばるべきはおそらくこの人かと私は心ひそかにさう思つて來た。
トルストイ
[#ここから10字下げ]
(原久一郎君よりその譯書『トルストイの聖書』のために、
何か書きつけることを求められて。)
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これを書いた頃のトルストイが部屋の外には、すでに薄暮が迫つてゐたやうな氣がする。彼は部屋を明るくしようとして燈火をつけた。それがこの基督傳だ。トルストイの長い生涯の中でも、『アンナ・カレニナ』製作後は別人の觀があるが、今度わたしはこの書を手にして見て、それほど彼を變へたものは彼の内部よりも、むしろ外部にあつたらうといふことを感知した。さすがに、これが簡淨な筆で書かれてあることは譯文によつてもよく窺はれて、かの釋迦の言行を録した阿含の精神にも近いかと思はれる。
チエホフ
[#天から10字下げ](中村白葉君がチエホフの全著作を邦語に移すときゝて)
人生の冷たさ、温かさを簡潔な筆に盡して、姿あはれに情深きはチエホフの作品である。傳ふるところによると、曾てアンドレエフはチエホフの『三人姉妹』を舞臺の上に見、これこそほんたうの人生だと言つて、涙の流れるのを禁じ得なかつたといふ。このことは移してチエホフの全作品にあてはまる。すぐれた外國作者も數多くあるが、その中でわたしの最も好きな作者の一人はチエホフだ。彼こそまことの『笑』をこの世に持ち來した稀な文學者だ。
頃日、中村白葉君はチエホフの全著作を邦語に移すべく思ひ立ち、すでにその初期作品の飜譯を一卷に纏めたと言つて、わたしのもとへも新裁の譯本一册を分けて贈つてよこして呉れた。わたしはよろこびのあまり、早速君へ手紙を出して、君は好い仕事をはじめて呉れたと書き送つた。白葉君は『ライフ・ワーク』としてチエホフ全著作集の邦譯に着手せられたと聞く。これほど熱心で責任感の強い譯者が原作者の愛をわたしたちにまで分けられるとは、何と言つてもうれしい。おそらく、どんな氣質を異にしたものでも、この譯本を手にして、原作者が天才の誠實に打たれないものはなからう。またその表現の的確で、豐富なのに驚かないものはなからう。文字の純粹性の何であるかをさゝやいてわたしたちを勵まして呉れるのもかうした著作だ。わたしはこの十六卷の邦譯が完成されることを切に希望する。
バルザック
[#天から10字下げ](バルザック全集の刊行をよろこびて)
バルザックに就いては今更多言を費すまでもない。問題は今日に於いていかにバルザックを讀むべきかにあらうと思ふ。バルザックに歸れとは世界大戰以前の當時に本國の佛蘭西に起つた一つの聲でもあつた。從來、吾國にはバルザックを知らうとするものはあつても、その著作の英譯せられたものはすくなく、比較的早く彼の作品に接した人達の中でも數種の英譯を手にし得たに過ぎなかつた。他の佛蘭西近代の作家にくらべて、彼の著作が吾國に傳へらるゝことのすくなかつた理由の一つは斯うした事情によるのであり、今一つは彼の大きさと深さとに入るためには相應の年月を要するからであつた。今囘、佛蘭西文學に精進する諸君の手によつてバルザック全集邦譯のごとき困難な仕事が企てられ、その著作の全貌を窺ひ知る機會の與へらるゝことは、何と言つてもよろこばしい。バルザックを讀む準備はわれひとの間に、すでに十分出來てゐると信ずるからである。
ゾラ
[#天から10字下げ](ルゴン・マカアル叢書の編輯者より言葉を求められて)
『一日として事なき日なし』といふことを座右の銘としたゾラを今日に生かして見たい。彼は本國の方でも廣く讀まれ、その著作には多數に呼びかける要素を多分に持つた作家であるから、彼が今日の日本に出現したとしたら持前の健筆で忽ち日本の大衆をひきつけたことであらう。彼は現實を掴み出して紙の上にひろげて見せる逞ましい力に富んだ作家であるから、現代日本を觀察して何を捉へ何を赤裸々に描寫するか、興味ある問題となつたであらう。彼は實驗的な方法を文學に取り入れようとした作家であるから、かなり簡潔で、且つ明快な日本文を書いたであらう。彼は人間の獸性を突きつめて行く作家であるから、現代の社會を背景に取り入れた日本的ナナの物語が多くの讀者を戰慄せしめたであらう。然し彼は大衆に悦ばれるやうなものを書いても淺くなく、現實を曝露しても冷くなく、實驗的であつても濕ひがあり、好色の男女を描いても生氣と健康とを失はない。彼が現代日本の社會にそゝぎ入れるものは、何より先づこの生氣と健康とであらねばならぬ。彼の死後本國の方に擡頭した多くの文學者はいづれも彼の缺點を感知して起つて來た。彼とても全く人間を書き得たとは言へなかつたかも知れない。しかし、私は上に述べたやうな意味で、ゾラの叢書の飜譯を歡迎する。あのドレフュウス事件では人道のために惡戰苦鬪した彼が先輩ルウソオと枕を並べて巴里のパンテオンに葬らるゝ人となつたことさへ不思議であるのに、今またその遺著が現代の日本に要求され、諸家の筆に譯さるゝ日を迎へたことは、おそらく生前の彼が夢想だもしなかつたことであらうと思ふ。
岡倉覺三
再吟味といへば、
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