桃の雫
島崎藤村

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)生一本《きいつぽん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)御眼|盲《めしひ》させ給ふ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]

 [#…]:返り点
 (例)江間波浪兼[#レ]天涌

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)深く/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔ve'ritable〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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     六十歳を迎へて

 年若い時分には、私は何事につけても深く/\と入つて行くことを心掛け、また、それを歡びとした。だん/\この世の旅をして、いろ/\な人にも交つて見るうちに、淺く/\と出て行くことの歡びを知つて來た。

     路
[#天から10字下げ](岩波書店の雜誌「文學」の創刊に寄す)

 古い言葉に、この世にめづらしく思はれるものが三つある。いや、四つある。空に飛ぶ鷲の路、磐の上にはふ蛇の路、海に走る舟の路、男の女に逢ふ路がそれである、と。わたしたちの辿つて行く文學にも路と名のついたものがない。路と名のついたものは最早わたしたちの路ではない。

     生一本

 あるところより、日本最古の茶園で製せらるゝといふ茶を分けて貰つた。日頃茶好きなわたしはうれしく思つて、早速それを試みたところ、成程めづらしい茶だ。往時支那人がその實をこの園に携へて來て製法までも傳へたとかいふもので、大量に製産する今日普通の器械製とちがひ、こまかい葉の色艶からして見るからに好ましく、手製で精選したといふ感じがする。まことに正味の茶には相違ないが、いかに言つても生一本《きいつぽん》で、灰汁《あく》が強い。それに思つたほどの味が出ない。わたしは自分の茶のいれかたが惡いのかと氣づいたから、丁度茶の道に精しい川越の老母が家に見えてゐるので、この老母に湯加減を見て貰つた。香も高く、こくもある割合には、どうも折角の良い茶に味がすくない。自分の家の近くには深山といふ茶の老舖《しにせ》があつて、そこから來るものは日頃わたしの口に適してゐるので、試みに買置きの深山を混ぜて見た。どうだらう、實に良い風味がそこから浮んで來た。その時の老母の話に、茶には香にすぐれたものと、味にすぐれたものとの別がある。一體に暖國に産する茶は香氣は高くてもその割合に味に劣り、寒い地方に産する茶は香氣には乏しいがこまやかな味に富むといふ。この老母に言はせると、おそらく深山のやうな老舖で賣る茶は多年の經驗から、古葉に新葉をとりまぜ、いろ/\な地方で産するものを鹽梅《あんばい》し、それに茶の中の茶ともいふべき『おひした』(味素)を加味して、それらの適當な調合から香もあり味もある自園の特色を造り出してゐるのであらうとの話もあつた。
 この茶から、わたしは生一本のものが必ずしも自分等の口に適するものでないことを學んだ。生一本は尊い。しかしさういふものにかぎつて灰汁《あく》が強い。新葉の愛はもとより、古葉をおろそかにしないといふことが好い風味を見つける道であらう。鋭いものは挫《くじ》かねばならぬ。柔いものは大切にせねばならぬ。淡き、甘き、澁き、濃き、一つの茶碗に盛りきれないやうな茶の味がそこから生れて來る。
 頃日、太田君の著『芭蕉連句の根本解説』を折り/\あけて讀んで見た。芭蕉は本來、生一本で起つた人に相違ない。さもなくて『冬の日』、『曠野』、『ひさご』の境地から、あの『猿蓑』にまで突き拔け得る筈もない。しかし蕉門の諸詩人が遺した連句なるものを味つて見ると、芭蕉はじめ、去來、凡兆、杜國、史邦、野水なぞの俳諧が、なか/\たゞの生一本でないことを知る。

     大きな言葉と小さな言葉

 好い手紙を人から貰つた時ほどうれしいものはない。眞情の籠つた手紙は、ほんの無沙汰の見舞のやうなものでも好ましい。それが何度も讀み返して見たいやうな、こまかい心持までよくあらはされたものであれば、なほ/\好ましい。

 わたしたちが母の時代の人達は、今日の婦人のやうに手紙を書きかはすことも、あまりしなかつたやうに思はれる。わたしは少年時代に母の膝もとを離れて東京に遊學したものであるが、郷里にある母から手紙を貰つたことが殆んどなかつた。母からの便りと言へば、いつでも嫂《あによめ》が代筆してよこした。今日から考へると、母が子に送る手紙を書いたこともないなぞとは信じ難い。しかし實際さういふ時代もあつた。

 昔は手紙を書くことを知らない婦人すらあつた。手紙と言へば、おほよそ定められた手本があつて、さういふ文範の教へる書き方によらなければ書けないものだと思つた人達が多かつたらしい。
 さういふ昔にも、好い手紙をのこした婦人達がなくもない。わたしはある商家の老婦人がその娘に宛てた數通の手紙の殘つたのを讀んで感心したことがあつた。その老婦人の書いたものも、『一筆しめしあげまゐらせ候』から始めて、『あら/\かしく』で結んだものではあつたが、内容は自由に、昔風な手紙の型の堅さなどはすこしもなく、こまかい心持もよくあらはれてゐて、子を思ふ母親の心がおのづからそんな好い手紙を書かせたのだと感心したことがあつた。その中には、『どうして自分の生んだ娘はこんなやくざなものばかりか』となげきかなしんだ言葉のあつたことを覺えてゐる。

 今日の婦人には最早わたしたちの母の時代のやうな窮屈さはない。婦人の教育はさかんになり、一切の舊い型は破れ、見るもの聞くものは清新に、深い窓にのみ籠り暮した昔の婦人に比べたら實に廣々とした世界へ躍り出して來てゐる。これほどの時代に生れ合せた人達が思ふことを自由に言ひあらはせない筈もない。
 ところが、わたしは身のまはりに集まつて來る諸方からの音信に接する度に、これはと思ふやうな手紙を書く婦人のすくないのに驚くことがある。何も言ひ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しの巧みさを求めるでもない。澤山な言葉を求めるでもない。眞情が直敍されてあつて、その人がよくあらはれてゐればと思ふのだが、さういふ手紙もすくないものだと思ふ。勿論、書けば書いたで、書かなければ書かないで、兎角物足りなさが先に立つて、わたしたちの思ふことがなか/\さう盡せる筈もないのだが、しかし相應に心も深く、生活も豐當で、逢つて話して見れば感心するやうな婦人が、どうしてこんな手紙を書くかと思つて心に驚ろくこともある。近頃、わたしはあるお孃さんが人の許に寄せた手紙のことに就いて、その話を又聞きにしたことがあつた。それを受け取つた人は、これが今の日本で最も進んだ教育を受けたといふお孃さんの書いた手紙かとさう思つたといふ。現代の人の口にのぼる問題でおよそ知らないことはないと言ふほどのお孃さんにして、どうしてそんな感じを人に與へるのか。教養と物書くこととは別の物であるのか、手紙を書くといふことも一つの才能であるのか、舊い技巧や形式を捨てることが反つて人をこだはらせるのか。

 それにつけて思ひ出す。曾て外國の旅にあつた頃、言葉の不自由さには自分でも苦しみ、在留する人達からもよくその話を聞かされた。國の方で語學の教師がつとまるほど外國の言葉に親しんだ人でも、一歩海の外へ身を置いた時は、靴一足注文するにもまごつくものだとの話なぞが出たことを覺えてゐる。ある人が以太利《イタリー》に留學したばかりの頃、その人を泊めた宿の以太利の婦人は不審を打つて、『今度日本から見えた客は不思議な方で、話をさせてはすこししか以太利語を話さないが、手紙なら實にすら/\とお書きなさる』と言つて驚いたといふ話もある。わたしたちの語學は多く眼から入る語學で、耳から入る語學ではないのだから、日常使用する些細な言葉の語彙には乏しくて、書物の中に出て來るやうなむつかしい名詞、形容詞を暗記してゐることは、しば/\外國人を驚かす。ある倫敦《ロンドン》の婦人は、日本から行つた留學生を前に置いて、『あなたがたは大きな言葉をよく知つてゐるが、小さな言葉を御存じない』と言つて見せたとか。どうしてこんなことをこゝにくど/\しく書きつけて見るかと言ふに、その英吉利《イギリス》の婦人が言つたといふ大きな言葉と小さな言葉の關係こそは、わたしたちの忘れてならないことで、一度その言葉の祕訣を會得したら、自由に思ふことも言ひあらはせるからである。これは會話の上のことにのみ限らない。物書く祕訣も、實はそんなところに潜んでゐるのではあるまいか。

 そこで、わたしは婦人の書く手紙のことに返つて、こんなことを考へてみる。成程、教養と物書くこととは別の物であるかも知れない。手紙を書くといふことも一つの才能であるかも知れない。舊い技巧や形式を捨てることが反つて人をこだはらせる場合もあるかも知れない。しかし、大きな言葉を知ると共に小さな言葉を知つて、その祕訣をつかんだなら、すくなくも生きた手紙を書き得るであらうと。

 現代の人の口に上る合言葉、新聞雜誌の中に見つける新語、書物の中に出て來る學問上の術語、それらの多くは大きな言葉である。わたしたちが現に口にしてゐながら、それに氣がつかずにゐるやうな、それらの親しみもあれば、陰影もある日常の使用語の多くは小さな言葉である。筆執り物書くほどのものは、いづれもこの小さな言葉をおろそかにしない。故福澤諭吉翁はあの通り明治初年の頃に文明論を書いた人であるが、あれほどの論文も大きな言葉ばかりでは書かなかつた。

 こゝに昔の人の書いた好い手紙の一節がある。大きな言葉ばかりでわたしたちの心が訴へられないことは、この手紙の一節を味つて見てもわかる。
『……松茸御所柿は心のまゝに喰ひちらし、今は念《おも》ひの殘るものなしと、暮秋二十八日より三十二日目に武江深川に至り候。盤子につかはされ候御返翰は、熱田は人々取り込み候へば、封のまゝにて岡崎まで持ち參り候て、窓の破れより風吹き入り、戸の透間より月泄りかゝれる、いをの油のなまぐさきよごれ行燈の前にて、御文まづ開く。泪《なみだ》、紙面にそゝり候。』
 手紙もこんな風に書けたら、どんなに樂しからう。そして、こんなに眞情が直敍されたなら、物書くその事が直ちにわたしたちの心を滿たすことであらうとも思はれる。

     昭和六年のはじめに
[#天から10字下げ](『夜明け前』第一部下卷を草する頃)

 新しい時代の歩みは今のところ激しく移り動いて底止するところを知らない。この趨勢は私達の日常生活から娯樂や運動の上に及び、通信交通の機關を換へるばかりでなく、印刷出版の面目をも改めつゝある。衣に、食に、住に、今日ほど新舊のものがめまぐるしく入り亂れてゐる時代もめづらしい。急激に時世後れになつて行く古い習慣がある。眼前には廢れて行く古くからの風俗がある。誰もがこの光景を目撃しながら、その感知したところのものを容易に言ひあらはせないでゐる。そこで要領のいゝ人達があつて、あるひは科學の浸潤、あるひは器械の發達、あるひは國際關係の激變、その他種々な言葉をもつて、その光景を私達に指摘して見せて呉れる。いづれにしても私達はこのめまぐるしい時代に處して、一方には近代的な施設を受け容れ、一方にはテンポの速さに應じて行かねばならぬ。これは一種の洪水だ。世界的の氾濫だ。こんな時に行き惱むもののあるのはむしろ當然で、それを見て嘲笑の聲を浴せかけるのは、無情と言はねばならない。

『無才無能にしてこの一筋につながると言つた昔の人もあるやうですが、私はそれほど自分を責めるでもなく、寢ごとを書いて暮すうちに、最早五十代を終らうとしてゐます。』
 こんなことを書いて去年の冬の『新潮』に寄せたこともある。人
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