ニして行き得るかぎりを行き盡したところには、何が自分等を待つてゐるだらうかといふやうなことは、今からそれを言つて見ることも出來ない。
しかし同じ老年とは言つても、人生の旅は一筋道ではなささうだ。去年の初秋、私はある河のほとりに沿うて山道を旅したことがある。私の降りて行く道は、やがて河の流れて行く道だ。その時、私はさう思つた。晝夜を止めずに低きに就くやうなこの水は、進みつゝあるのだらうか、それとも歸りつゝあるのだらうかと。
私は七十歳に近い一人の老婦人を知つてゐるが、此婦人なぞのするところを見るに、物を探し物を掴まうとする日常刻々の努力にかけては、殆ど青年に異ならない。たゞ青年の探すものが好かれ惡しかれ新しい刺激を與へるやうなものであるにひきかへ、この老婦人の探すものは、若い時分に刺激を受けたものにどうかしてもう一度めぐり逢はうと思ふの相違だ。例へば變り果てた町の中を歩くにしても以前にあつた古着屋などを探し當てゝ、昔流行つた着物の殘りをなつかしむといふ風である。そこで私はこの老婦人を見る度に去年の河のほとりでの旅を思ひ出して自分に言つて見る。その年になつても休息することを知らないやうなこの老婦人は、更に人生の旅路を進めつゝあるのだらうか、それともあるところから引き返して來て若かつた時分の方へと、どん/\歸路を急ぎつゝあるのだらうかと。
過ぐる多事な一年もさびしく暮れて行つた。曾て私は世界大戰の最中に佛蘭西を辭しヴェルダン要塞戰の始まりかけた頃に英吉利海峽を後に見て、大西洋上の危險區域を船で通り過ぎたことがある。その時、船中の無線電信室を訪ねると、遠い海上で助けを求める聲が受信機に傳はつて來てゐた。どうしてこんなことをこゝに書きつけて見るかといふに、餘日も少い去年の暮あたり、私の耳の底にある受信機には、何程の助けを呼ぶ聲が傳はつて來たとも知れなかつたからである。
兎も角も私達は餅をつき、松の小枝を門にさし、輪かざりを軒にかけて、新しい正月を迎へることが出來た。古人も多く旅に死んだとやら。笠をかぶり草鞋をはいて年を越えると言つた昔の人は、一年に一度のかち栗、ごまめ、數の子の味をよく噛みしめることをこの私達に教へて呉れる。
寢物語
[#天から10字下げ](昭和八年のはじめ、『夜明け前』第二部上卷の稿を繼ぐ頃)
一
寒※[#「魚+陸のつくり」、第3水準1−94−44]《かんむつ》、鮟鱇《あんかう》、寒比目魚《かんびらめ》なぞをかつぎながら、毎日大森の方から來てわたしの家の前に荷をおろす年若な肴屋がある。冬の魚を賣つて行く。その後には何かしら威勢のいゝ、勇みなものが殘る。かうした肴屋の聲にかぎらず、いろいろな物賣の聲には、機械を通じて傳はつて來る響にないものがある。町を呼んで通り過ぎる花屋の聲のすゞしさ、寒紅賣《かんべにうり》のやさしさ、竿竹賣のおもしろさ。あたりの空氣をやはらげたり引き立てたりするものは、どうしても陰影の多い人の聲にかぎるやうだ。
ずつと以前にはわたしたちもよく聲を出したものだ。少年時代に四書五經の素讀から始めたわたしなぞは、聲を出して讀書することを樂しみに思つたばかりでなく、それを聽くことをも樂しみに思つた。わたしたちの出す聲は隨分無茶で書生流儀のものではあつたが、いくら叫んでも叫び足りなかつたやうに、わたしたちの胸から迸り出るものが、いろ/\な試みともなつたのである。
どうも、この節は聲を出すといふことが、どの方面にも少くなつたやうな氣がする。どつちを向いて見ても、鳴りを潜めて、沈まり返つてゐるやうな氣がする。物をいへば口唇が寒いのか。吹き狂ふ世紀のつめたい風がこんなに人を沈默させるのか。
書物に對してすら、今の私達は音讀の習慣を失ふやうになつた。默讀、默讀だ。これは自分等のやうな年頃のものばかりでないと見えて、町を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてもめつたに若々しい讀書の聲をきかない。
先づ聲を出せ。そのことに思ひついて、音讀や朗吟の氣風を再興したいといひ出した人がある。その趣意を弘めるための試みの一つとして、最近に短歌五首と長詩一篇とを朗吟し、それをポリドオル蓄音器會社のレコードに吹き込んだ人がある。それを吹き込んだ人が土岐善麿君であるのだから、私にはめづらしく思はれた。そのレコードの半面は遠くは西行や實朝から近くは啄木までの五人の短歌一首づゝ、半面にはわたしの千曲川旅情の歌を組み合せたものであるが、發行所から寄贈されたのを聽いて見ると、自分らの青春はそんなところにも隱れてゐるかのやうな心持を起させる。あの朗吟は、それほど自然で、すこしのわざとらしさもない。耳ざはりも實に爽かである。おもしろい試みと思つた。
滿目蕭條――寒い季節がやつて來た。さういふ中で、町へ來る冬の雨の音ほど、このわたしの心を落ちつかせるものはない。その音を聽くたびに、わたしはいろ/\なことを思ひ出す。平素は殆ど忘れてゐたやうなことまで思ひ出す。そして、この生を耐へる氣になる。
[#天から4字下げ]人々をしぐれよ宿は寒くとも
南の障子に近く行つてこの昔の人の句を口ずさんで見る。雪景色が好きでよく描いたらしい王維の繪畫にあらはしてあるやうな、あの寒い遠さを一緒に胸に浮かべて見る。しぐれながらも人を訪ふものがあり、雪に濡れながらも道を行くものがある。さういふ思ひを傳へるものは、句にしても繪畫にしても、すべて親しい。それが冬の姿であれ風情であれ、底に燃える焔を形にあらはして見せて呉れるやうなものであるなら、猶々ありがたい。
二
昨年度において、私の心に引かれたものの一つは、ゲエテ百年祭を機會にあの詩人を囘顧する聲のかなり賑やかであつたことである。岩波書店で發行する雜誌『思想』のゲエテ研究號を初め、わたしは自分の手の屆くかぎり諸家の筆になるものを讀むのを樂しみにして、ゲエテの研究もこゝまで深められたかと想つて見た。その人が亡くなつてから百年もの後になつて、こんなにゲエテを探す聲の聞えて來るのは、どういふわけかと想つて見た。それほどわたしたちの生活が急速な歩調で、自然から遠ざかりつゝあるためではなからうかとも想つて見た。
大きな自然を母とすることにおいて、ゲエテはまさしく十九世紀の人である。わたしたちの求むべきものは、ゲエテの跡を求めることではなくて、ゲエテの求めたものを求めることにある。
ゲエテの生涯になつかしいことは、あれほど險しい理路を辿りながら、しかも正しい感情を解放し得たところにある。あれほど人間的なものを愛し、また一生を通してその愛を深めて行つたところにある。
昨年度は、市川團十郎の三十年祭といふことでも、いろ/\な催しがあり、諸家の追憶談で賑はつた。どうも非常時には亡くなつた偉人を喚び起すことが流行して、故人のやうな劇壇の偶像破壞者までを更に偶像扱ひにすることは感心しないが、しかし三十年後の今日に故人の生涯を見直さうとした幾人かの人達の眼のあつたことは心強い。歌舞伎の世界に反抗の精神を持ち來した故人が、淫靡で頽廢した江戸末期の舞臺の上の空氣に決して滿足しなかつたこと、故人の一面がその意味において歌舞伎の破壞者であつたこと、しかし故人のやうな性格の俳優は默阿彌にも櫻痴居士にも遂に『作者』を見出さなかつたことなぞが、それらの人達の眼によつて明かになつた。これを書きかけると、ふと思ひがけない人の詩の句が私の胸に浮んで來た。『こゝろざしといふものは果して幾人によつて憐まれるであらうか』との意味の句である。長く舞臺を踏んで多くの見物があこがれの的であつた成田屋のやうな人でも、やはり無言なこゝろざしを懷にして、見る人の見るまゝに任せながら、この世を過ぎて行つたであらうか。
三
人間的なものであればなんでも好ましい、といつたゲエテのやうな人もある。植物からも動物からもその材料を採つて、紡ぎ、織り、染め、そして着るわたしたちの衣服こそ、どこまでが『自然』でありどこまでが『人工』であるともいへないほど調和したものの一つであらう。かういふことは、人間の世界以外にちよつと見當らない。わたしたちは着る物によつて、實に種々さま/″\なことを感ずる。新舊の悲喜劇は着物からも起る。假令《たとへ》食ふ物をすこしぐらゐ減らしてまでも、着る方に浮身をやつすといふ人さへある。それを思ふといぢらしい。
小紋といふ染模樣は、今はすたれたが、わたしの青年時代までは年若な人たちが好んで着たことを覺えてゐる。ひとり年若な人達ばかりでなく、年老いた男でも女でも昔はよくあれを着たものであるとか。小紋は鼠地を本色とするといふ。こまかい粉のやうな雪を一面に散らしたやうな意匠の染模樣は、白と鼠色との好ましい調和だ。染色が化學工業の時代に移つてから、好い鼠色を出すことの困難なため、小紋も次第に染色の世界から隱れるやうになつたと聞くが、あゝいふおもしろい意匠が往時の流行にとゞまり、もう一度歸つて來ないのは惜しい。
わたしの家には今、埼玉の冬を避けに出て來た川越明仁堂の老母がゐる。この年とつた婦人が自分の父親から聞いた話だとして、小紋の染模樣の意匠を遠く在原業平の昔にまで持つて行つて見せた。老母の口吻によると、業平はよほどの洒落者であつたと見えて、鼠地の衣裳の上に白い雪の降りかゝつたのをおもしろく思ひ、それを模樣に染めさせたのが、そも/\の小紋のはじめであると、その道の人の間にいひ傳へられて來たとか。業平小紋なるものがそれだともいふ。この話をある人にしたところ、かういふことには兎角附會の説が多いから、業平小紋もおそらく傳説的な形容の言葉であらうと言つてゐた。兎もあれ、小紋を着るに最もふさはしく思はれるのは冬の日だ。雪やあられと同じ灰白な色調を着て徘徊した時代もあつたと考へて見ただけでも、そこにいひあらはしがたい風情が浮んで來る。
四
近江と美濃の國境には寢物語の里の名が殘つてゐる。兩國の村里が相接して、國と國との寢ものがたりする趣のあるといふところから、その名がある。めづらしく思つて、以前にもわたしはさういふ村里のあることを物のはしに書きつけて見たこともある。木曾路名所圖會をあけて見ると、あの邊が東山道の街道筋に當るところで、左右に見える近江と美濃の山々がたけくらべする趣のあるところから、別にたけくらべの里の名も殘つてゐるといふ。名所圖會にはあの村里の圖も出てゐるが、それを見ると兩國の境は壁一重といつてもいゝ。一方に美濃の兩國屋といふ休茶屋があれば、一方には近江の境屋といふ旅籠屋《はたごや》がある。さういふ民家が軒を並べてゐる。兩國のものが相往來し、互に寢物語りも出來さうなところである。
さういふわたしは、信濃と美濃の國境に生れたところから、殊にあの寢物語の里のやうな土地柄には特別に興味を覺える。わたしの郷里では、國も違へば言葉のなまりまで違ふものが山一つへだてながら隣合つて住んでゐる場合であつて、村と村とがそれほど接近した位置にあるわけでもない。でも、美濃派の俳諧は古くからわたしの郷里に流れ込んで來てゐるし、わたしの村に生れた古い畫家の筆は隣國にある人の家のふすまや屏風を飾つてゐる。こちらから嫁にも行けば、向ふから養子にもくる。國の境もそこまで行けば、ほとんど境なきに至る。兩國のものは一切の相違を忘れて、互に混り合ひもすれば、許し合ひもしてゐるのだ。
囘顧
[#天から10字下げ](『日本文學講座』に寄す)
改造社から出版された日本文學講座はすでに第十四囘の配本を終り、和歌文學に、物語小説に、隨筆日記に、俳諧文學に、その他明治以來の新しい文學等に、一大文學史の觀あるこの講座もまさに完成されようとしてゐる。わたしは筆執り物を書くものの一人としても、この講座編輯者が骨折と苦心とに對しては感謝の意を寄せたい。これほどの講座は明治年代にはあらはれなかつたもので、わたしたちとしても益を得ることが多かつた。一方
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