c然それをされていゝ人で、未だに等閑にされてゐる明治年代のすぐれた人もある。岡倉覺三の生涯なぞはその第一に數ふべきであらう。自分の好みにおもねるではないが、東洋と西洋との文化をほんたうによく噛み碎いた彼の著作こそは、明治年代がわたしたちに遺して呉れた最もいゝ遺産の一つと言つていゝ。いつぞやわたしは織田正信君の厚意で、かねて長いこと心掛けてゐた彼が東洋美術に關する諸論文を讀む機會を得た。彼がその創見に滿ちた『東方の諸理想』の中で教へてゐることは、ひとり東洋の美術にのみ止らないで、文學にも宗教にも哲學にも亙つてゐる。明治時代に岡倉覺三のやうな東洋の諸美術と文學宗教との關係に對する廣い知識と洞察力とをもつてゐた人があつたといふことすら不思議なくらゐだ。彼天心居士が日本、南北の支那、及び印度地方の美術に關する熱心な探求は、あたかもかのウ※[#小書き仮名ヰ、271−11]ンケルマンが希臘美術の探求に比べて見たいもので、おそらくその研究の困難は獨逸人のそれにも過ぎたものがあつたらうと思はれる。おそらく近代に『東洋』を發見したもので、彼の所説に負ふところのないものは少なからう。岡倉覺三こそは、まことにわたしたちが好い教師の一人である。

     鴎外漁史

 先年、私は山陰の方へ旅をして、鴎外先生の郷里の方まで行つて見たことがある。石見《いはみ》の國の高津川に沿うて行つたが、長州の國境に近い山間の小都會に津和野と云ふ町があつて、そこが先生の郷里であつた。そこ迄行くと、長州的な色彩も濃くなつて、石見からするものと、長州からするものが落ち合つたやうな感じを受ける。ちやうど、眞水と鹽水の落ち合つた感じのする町であつた。私は自分の郷里が、信濃の國境にあつて美濃に接近してゐるところから、さうした津和野のやうなところには特別の興味を覺えた。
 そこに養老館がある。津和野の藩校の跡が殘つてゐる。少年時代の先生は、そこで學ばれたものらしい。その構内には郷土館があり、圖書館があり、集産館の設けもあつて、小規模ながらに、津和野のミュウゼアムと云へるのも珍らしく思つたが、その養老館の跡に學則風のものを書いた古い額が殘つてゐた。國學、漢學、蘭學、醫學、數學、武術としてあつて、鴎外先生の學問はこれだ、と思つて見て來た。後年に軍醫でもあれば、國學と漢學と洋學とに精通した學者でもあり、また、たくさんな創作や飜譯を殘された作者でもあつた先生のやうな人が生れて來たことは、偶然ではないことを知つた。先生は文學の上で言葉の世界を豐富にしたばかりでなしに、今日陸軍で行はれてゐる軍事上の術語なぞも多く先生の考案によると云ふことを聞く。行くところとして可ならざるはないやうなその才能は驚かれる程で、博物館の館長も勤まれば、國語調査會の會長も勤まると云ふ人だつた。若い者の仕事などを喜んで助けると云ふやうなさう云ふ麗はしい性質を多分に持つてゐた人で、小山内君が自由劇場を始める時に、先生はイブセンの『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を口譯し、それを鈴木春浦君に筆記させて與へたこともある。小山内君の新劇運動にも、その蔭には先生のやうな人の助力があつた。

 いつぞや正宗君、里見君と同席で、先生の噂などが出た折に、一體先生は東西の文學者の中で誰に私淑したらうかと云ふ問が出た。その時私は、先生が日頃の言説から押して、それはゲエテであらうかと答へて見た。そこで、ひとしきり私達の話はゲエテの生涯と先生の生涯の比較になつた。私はあの席で、二君にも話したことだが、ゲエテの生涯には何事につけても、身を以て當ると云ふところがあつたと思ふ。そこから、『若きヱルテルのわづらひ』のやうな青春の書も生まれて來たし、生の肯定の苦しみを描いた『ファウスト』のやうな劇的な主題を取り扱つたものも生まれて來たし、またあのゲエテの晩年に見るやうな深い自然觀にも到達したかと思ふ。そこへ行くと鴎外漁史は違ふ。先生はあの通りな明徹の人であつたから、何事にもゲエテのやうに深入りしなかつたのではなからうか。それにゲエテは先生の行き方ともちがひ、むしろ感性に重きを置き、感情こそ一切だと言ふやうな人であつたから、その生涯を先生に比較することがすでに無理かも知れない。

 鴎外先生の長い文學生涯から言つても、澤山な創作を殘されたのは先生の文體が一變してから後のことのやうである。『スバル』に『三田文學』に、先生の書かれるものは一頃よりは却つて若々しくさへ見えた。あの『舞姫』から出發せられた頃に思ひ比べると、表現の方法からして別人のやうになつた。先生のやうに長く精力の續いた人もめづらしい。幸田氏なぞがあの創作の筆を收めて、默し勝ちに暮さるゝやうになつても、まだ先生は長い歴史物を書いて倦まない人であつたところから見ると、やはり先生の内には他の先輩とちがつた『青年』があつて、あたかも古葉のためにも煩はされずに、絶えず若葉する老樹のやうな力を持ち、晩年になつてもまだその力が衰へずにあつたかと思はれる。

     シェークスピア
[#天から10字下げ](坪内逍遙博士が修訂完譯のシェークスピア全集成る)

 シェークスピアを讀み直して見ることは、ある意味に於いて西洋文學を讀み直して見ることである。これはひとり東洋人ばかりでなく、西洋人にとつてもまた大切なことで、これまで幾度かその讀み直しが行はれ、そこから獨逸流の新解釋も生れ、佛蘭西風の見方も起り、トルストイのやうな人の異説ともなつた。われらとてもシェークスピアの如き西洋文學の代表的な作者をよく知らねばならない。今日國文學の研究熱がさかんに興つて來てゐる時に當つて、シェークスピア全集讀み直しの機會が與へられたことは、偶然なこととも思はれない。過去の經驗によれば、國文學の復興はたゞ單獨にはやつて來ない。それには必ず外國文學に對する新しい情熱を伴ふ。その意味から言つても、今囘中央公論社の發起によつて、坪内博士の新修シェークスピア全集が發行される日の來たことをわたしは多くの讀者諸君と共に悦びたい。
 わたしがこれを書いてゐる日は、讀者諸君はすでに清楚な新裝の成つた譯本の一部を手にせらるゝ頃かと思ふ。試みにあの『ハムレット』や『以尺報尺』の中に書いてある博士の緒言と附記とを熟讀したまへ。おそらく諸君は西洋文學探求の決してゆるがせにすべきでないことを感知せらるゝであらう。ありのまゝに言へば、わたしは博士の譯筆に接して、どうかするとあまりの輕さにまごつくこともある。しかし、シェークスピア文學のやうな古典を、殊に『ハムレット』のやうな戲曲を、どういふ言葉でこの國に移し得るかをも考へて見る。これは、かのウイルアム・アーチャアがイブセンの散文戲曲の英譯を企てたにも勝るとも劣ることのない困難な仕事だ。何よりも先づこの骨折と、熱心とは尊い。
 讀者諸君のために言へば、わたしはこの國の貞享元祿の作者達が、あるひは『五人女』を完成しあるひは『曠野集』八卷を編むより八十餘年も前の方に、先づ諸君の想像を誘ひたい。この國の徳川家康が晩年にも當る頃に、『ハムレット』が初演せられ、出版せられたことを想ひ見てもらひたい。その風俗も、その言葉も、またその感情も、おのづから後の代とは異ならうではないか。言つて見れば、十六世紀末から十七世紀の初へかけてのシェークスピアの時代は、まだ/\歐羅巴の中世的なものが多分に殘存した時であらう。新舊時代のものの入れまじつた時であらう。そのことはハムレットその人の複雜な性格の中にも見出されるであらう。彼はわれらの時代の人に近い近代人であるばかりでなく、同時に遠い昔の人のやうな中世騎士の面影を具へてゐる。あたかも、わが國元祿時代の近松、西鶴、芭蕉等の文學に新興の氣象の溢れてゐるやうに、シェークスピア戲曲の面白味もまたさういふ新舊の色彩の錯綜したところにあるのではあるまいか。その作品には縱横自在に筆が振つてあるにもかゝはらず、何となく古雅で、十九世紀初期の諸詩人の作風の涼しさ新しさとおもしろい對照を見せてゐるのは、いはれのないことでもない。
 今から四十餘年前に、西歐の文學を探らうと志した明治青年の多くは、佛蘭西のモリエールやコルネエユに行かないで、先づ英吉利のシェークスピアに行つた。これは外國交通の便宜と言語の習得等の事情によることは勿論であるが、大體の選擇に於いてわれらの先輩もかなり要領のいゝ人達であつたと思ふ。といふは、ダンテの高さを望み見るにしても、ゲエテの深さに思ひを潜めるにしても、先づシェークスピアから入るといふことが踏み迷はない好い道だからである。このことは四十餘年後の今日にもあてはまる。諸君は安心して西洋文學の定石をこゝに見出すことが出來る。これを後の近代文學に比較して見ようと、どうその發展の跡を辿らうと、諸君の勝手である。この集の中には西歐の傳説を骨にした幾多の戲曲もあつて、讀物としても多くの興味を諸君に與へるであらうと信ずる。わたしはこの好い機會に、シェークスピアの讀み直しを諸君に薦め、今日誰もが無關心でゐられる筈もない西洋文學の長所短所を一層はつきりと感知せらるゝことを切望する。

     應援の辭

 教育のことはその源に遡らなければならない。それには少年期に於ける情操の養成をゆるがせにしてはならない。人の一生が殆んどその發芽の時代に決すると言つてもいゝことは、誰しもこの世に經驗するところである。その源をおろそかにして、どうしてまことの智を尚《たつと》び、まことの徳に從ひ、まことの美を愛するといふことが出來よう。濱田廣介君はこゝに見るところがあつてか、郷土と民族とに根ざすことの深いまことの童話を教育に結びつけることを思ひ立たれた。これはトルストイが晩年に到達した教育事業の精神にも近い。その意味から、わたしは君が新しき出發を祝し、志操の堅きこと十年一日の如き君のためにこの應援の言葉を送るものである。

     世界文藝大辭典

 畏敬する吉江喬松君が世界文藝大辭典編輯の大きな事業も着々その工作を進め、今やその第一卷を刊行し、第二卷刊行の日もまた近きにあるであらうと聞く。これは東洋方面の文化の覺醒を期待して、世界のそれに合流せしむることの眼に見えない一つの港を造らうとするがごときものである。吉江君はその起工の始めに當り、多くの希望を抱いて出發せられたもののやうである。編輯者としての君が所謂『現實に徹して理想に向ひ、國民意識に徹して世界意識に伸展する力』とは則ちこれを造らうとする君の意圖を語るもので、そのために君の用意された比較研究と歸納實證の方法は、あたかも海波をせきとめるために築きあげた港の堤防に譬ふべきものであらうか。もしこれが無事に竣工されたあかつきには、凡ゆる種類の文藝思想藝術を載せた何百の船がこの港に碇泊すると言ひ盡すことも出來まい。雄大な氣象はおのづからそこに感ぜらるゝであらう。吉江君はこの世界文藝大辭典のはじめに序して、『我邦の文藝は今や世界文化の表面に第二の大きなルネエサンスを呼び來すべき重要な使命を持つて進展しつつあるのである』と言ひ、『その時機は徐々に近づきつゝあると感ずる』とも言つて、曾て東洋の宗教哲學思想藝術を集大成した我日本は更に第二の重要な綜合時期に邂逅しつゝあることを警告し、最も公平無私に世界文藝の現象を追究し得る立場に置かれてゐるものは現在われら日本人を措いて他にないとなし、その當然の責務を遂行することによつて文藝意識の高揚を計るこそ、目下の急務であると語つてゐる。おそらくこれを造るために今日まで費された努力、またこれを完成するまでの努力は莫大なものであらう。わたしは君が志をさかんなりとし、多くの讀者諸君もまたこの良い企てに協力せらるゝことを勸めたい。これは尋常一樣の辭典ではない。

     愛兒讀本

 最近に、わたしは昔の人の筆になつた『童蒙入學問』といふ本を開いて見て、すくなからず心に驚いたことがある。といふは、昔の人が子供の讀本にと書いて與へたのはこんなむつかしい言葉であつたかと思ふからであつた。わたしは又、それらの教へ草があまりに嚴
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