iで、教訓的なのに驚きもした。さういふわたしは木曾の山村に生れ、あの深い森林地帶に自分の少年時代を送つたものであるが、父は熱心な子弟の教育者であつたから、わたしも父から與へらるゝまゝに、よく聲をあげてそれらの昔の教へ草を暗誦したことを覺えてゐる。わたしは子供心にもそれらの著者を尊敬することは知つてゐても、どうしてもその内に入つて行くことは出來なかつた。反つて家の圍爐裏ばたにゐる爺さんなぞの話しかけて呉れる言葉の方に耳を傾け、子供にもわかり易い昔話、解き易い謎、さては田圃や畠の間にころがつてゐるやうなお伽話に、言ひ知れぬ親しみを覺えたものであつた。このわたしたちの幼少な時分に思ひ比べたら、今日の兒童は遙かに幸福であると言へよう。何と言つても、新しい兒童の文學がこの國に開拓されたのは、明治以來の文學者がそれまで在り來つた堅く狹苦しい制約を破つて、言葉と文章との一致といふことを考へたところから始まる。この愛兒讀本の著者、小野君もやはりその歴史を見て來た人の一人で、おそらく言葉と文章とを結びつけることの歡びにかけては、わたしたちと感を同じくせられるであらうと思ふ。さてこそ、この讀本に見るやうな、やさしい言葉も生れて來たのである。まつたく、幼いものに話しかけることの樂しさ。もしその言葉が子供の耳にも入り易くて、直ぐにも彼等に親しまれるとしたら、どんなにうれしからう。もし又、その言葉が子供にとつて面白いばかりでなく、彼等幼いもののおのづからな性情を養ひ、その胸を開かせることに役立つとしたら、どんなにうれしからうと、君が新著のはじに書きつけておくる。
文壇出世作全集
[#天から10字下げ](中央公論社創立五十周年の記念に)
これまで文筆に從事するものが各自の作品を持ち寄つて一つの集をつくり、友とする人、あるひは師とする人に贈つたといふことはあるが、こゝにわたしたちが作品を持ち寄つたやうに雜誌經營者の多年の骨折に報ゆるため一つの集をつくることは、おそらくこれを初めとする。
今更言ふまでもないが、いかに筆執り物を書く英才が雲のやうに起る時代でも、適當な發表の機關なしには叶はぬこと。明治以來の新しい文學がとにもかくにも民間の事業として今日までの發達を見たことは、いさゝかわたしたちが自らの慰めとし勵ましともするところであるが、それにはわたしたちに幾多の舞臺を提供して呉れた人々の力に待つことも多かつたことを想ひ起さずにはゐられない。
明治年代以來、わが國に於ける雜誌の發達にも驚かれるものがある。成程、明治以前には澤山な書籍はあつた。しかし、雜誌のあつたといふことを聞かない。芭蕉、近松、西鶴時代の人はもとより、秋成時代から降つて京傳、馬琴、種彦、三馬時代の人になつても雜誌に物を書いたといふことは聞かない。まつたく雜誌の經營はわたしたちの時代に起つた一つの新しいあらはれで、もしその發達のあとをさかのぼつて見るなら、そこにもこゝにも活きた歴史の光景を指摘することが出來るであらう。自分の狹い視野の範圍から言つても、これまで雜誌のいとなみはつねに書籍刊行の事業に先んじて來たやうである。民友社、政教社、乃至女學雜誌社と數へるまでもなく、明治年代に看板をかゝげはじめた博文館のやうな大規模の出版會社までも書籍を後にして雜誌を先にした。これは編輯、印刷、發賣の便にもより、資金の囘收と市場の關係等の種々な事情から誘致されたことであらうが、しかしそれのみとは決して言ひがたい。それにはかうした氣運を導いた人々のあつたことを見逃せない。何といつても書籍の刊行には明治以前からの長い傳統もあり、それに携はる人々は仕事の性質からも兎角舊套になづみ易かつたのに引きかへ、雜誌の經營は多く活溌な新人の仕事で、その足どりも輕く、時を見る眼のさとさにもすぐれてゐたと言はねばならない。今は故人となつた瀧田君なぞはたしかにその一人に數へられるべき人であらう。
瀧田君が雜誌の仕事に心身を投じはじめた頃の中央公論社はまだ新世帶であつて、同君は社主の麻田君を相手に臺所の相談にも預かれば、編輯も切り盛りし、廣告文にまで自ら筆を執るといふ風であつたと思ふ。わたしが瀧田君を知るやうになつたのも明治三十九年以後のことで、同君の新しい出發はやはりわたしたちと同じやうに日露戰爭以後の一大轉換期に際會した頃であつた。反省雜誌以來の中央公論が面目をあらため、文學の創作欄にも大に力を入れるやうになつたのは、その頃からであつたと記憶する。わたしは西大久保の方にあつた舊居でも、淺草新片町の方にあつた書齋でも、よく瀧田君の訪問を受けたが、一面には同君は文學の愛好者で、わたしたちが寄稿するものをところ/″\暗誦し、時には同君一流の批評を試みるほどの熱心さであつた。あの瀧田君が血の氣の多い頬、つぶらな眼、特色のある縮れ髮、それから堅肥りのした精力的な體躯なぞは、今だにわたしの眼にある。
こんなことをこゝに書きつけて見るのも他ではない。あの瀧田君の記憶と中央公論とはわたしには引きはなして考へられないものであり、今日わたしたちがこの集のために作品を持ち寄るにつけても、一片懷舊の情禁じがたく、同時に瀧田君が後繼者としてその仕事を幾倍かに擴げた嶋中君に望むことも多いからである。こゝろみに日露戰爭以後の文學に縁故の深かつた雜誌でわたしの胸に浮ぶものを數へて見ても、太陽、新小説、文藝界、文章世界、それから舊早稻田文學、藝苑、新古文林、帝國文學なぞ、いづれも今は過去のものとなつた。その中にあつて中央公論が創立以來五十周年を今日に迎へると聞くことは異數とせねばならぬ。この長い骨折はわたしたちとしても感謝していゝ。
わたしは今、他の諸君と共に、こゝろざしばかりのものをこゝに持ち寄つた。又、これを機として、めづらしい作品集の出來たことを一つのよろこびともし、この集の内容にはかゝはりのないやうなこんな寢言をしるしつけて、序の言葉にかへたいと思ふ。
木の實、草の實
龍の髭の紫、千兩、萬兩、藪柑子《やぶかうじ》、さては南天の白と紅。隱れたところにある庭の隅なぞに、それ等の草木の實を見つけるのはうれしい。寄贈を受ける諸雜誌の讀物の中から、木の實や草の實にも譬へたいやうな二三の言葉を拾つて見ようと思ふ。
『河』といふ同人雜誌には、以前毎號の卷頭にゲエテの言葉を譯載した。あれは拾つても/\盡せない美しい珠のやうなものばかりだつた。その中に『自然には進化はない、變化があるばかりだ』といふ意味の言葉なぞはいかにもゲエテのやうな人が到達した境地らしく思つた。
『三田文學』新年號を讀む。譯載してあつた論文の中に、ヘエゲルの表現によればとして、『矛盾なるものはすべての領域――從つて藝術的上層建築の領域に於いても亦――に於ける歴史的過程の指導原理である』との一句には心をひかれた。
佐藤春夫君が編輯する『古東多滿』を讀む。その中に、ロダンの彫刻の特質を一つの氾濫と言つてある高田博厚氏の文章にも心をひかれた。彼ロダンの價値はこの多樣の氾濫から一つの要素を要約したことにあると云ひ、併しこの失敗の多かつた氾濫は彼の性癖や好みから直接來たものではなくて、むしろ彼の飽くことのない『自然探求の努力の成果である、ロダンほど彫刻を自然の要素に於て見た者はない』と云つてある。『あくどいまでに貪婪《どんらん》なロダンはそれだけの犧牲を拂つた。彼の歩む道は簡單ではなかつたのだ。複雜を極め、また困難であつた。さうして寧ろ彼は「理想」や「原則」を主張せず、手放しで彷徨したのだ』とある。この言葉も忘れがたい。理想や原則に嚴しく自己を縛りつけてしまはないで、むしろ失敗の多かつた氾濫に身を任せたロダンのやうな彫刻家もあつたのだ。
『思想』新年號を讀む。高坂正顯氏が論文の中に『我々は歴史を理性に於いて見るかはりに理性を歴史に於いて見なければならない』といふ言葉にも心を引かれて、氏の言ふ時に關する四つの見方の前に連れて行かれた。『一つは過去から現在を經て未來に向ふ時であつた。二つは未來から現在を經て過去に向ふ時であつた。三つは現在から過去と未來とへ行く時であつた。四つは永遠から過去、現在、未來へ降りてくる時であつた』とある。氏はこの見方から、單なる過去は歴史ではなくて現在に於いて生命を有するもののみが歴史であると言ひながらも、猶、發展する歴史が歴史の全部でなく、歴史の全部が連續的なのではなく、歴史は現在の内に盛り盡し得ざる深き意味を過去に止めることを指摘して見せてゐる。
雜誌ではないが齋藤勇君が編輯する『文學論パンフレット』の中に、ヰルバア・エル・クロスといふ人の『近代英米小説』が出てゐる。織田正信君の譯だ。その中に『文藝の革新には常に幻想を伴ふものである』との言葉を見つけた。幻想を伴ふもの必ずしも文藝の革新にのみ限らないやうな氣がして、あの言葉も忘れがたい。
著作者としての自分の出發
『著作生活を始めようとする時に私の書生流儀に考へたことは、兎にも角にも出版業者がそれ/″\の店を構へ店員を使用して相應な生計を營んで行くのに、その原料を提供する著作者が食ふや食はずに居る法はないといふことであつた。それからまた私の考へたことは、從來著作者と出版業者との間にわだかまる幾多の情實に拘泥して居るよりも、むしろ自分等は進んで新しい讀者を開拓したいといふことであつた。
――私が柄にもない自費出版なぞを思ひ立つたのは、實に當時の著作者と出版業者との關係に安んじられないものがあつたからだ。何とかして著作者の位置も高めたい、その私の要求はかなり強いものであつた。その心から私は書籍も自分で造り、印刷所や製本屋へも自分で通ひ、自分の作品を直接に市場に送り出さうとした。私はその資金を得るに苦しんで、北海道の方にある親戚を訪ふために日露戰爭當時の空氣の中を小諸から遠く旅したこともある。私の最初の長篇は前半は小諸で書いたが、それまでの教員生活から離れてあの作を完成し得るあてもなかつた。私は書きかけの長篇の草稿を抱いて山を降りる前に、親しい友人の助力を期待して小諸から志賀の山村まで深い雪の道を踏んで行つたこともある。私の「緑蔭叢書」が世に出るやうになつたのも、あの友人の勵ましに負ふところが多かつた。
――自費出版で思ひ出す。「緑蔭叢書」は數寄屋橋の方にあつた秀英舍の工場で印刷した。一體、私は木曾のやうな田舍に生れて、少年時代に自分の着る物でも食べるものでも多くは家で手造りにしたやうなものであつたから、そんな幼少の頃からのならはしが自然と私の内に浸み込んで居て、自分で自分の本を出すといふ場合にも物を手造りにするやうな悦びを覺えた。それに私は書齋の中に引込んでばかり居るよりも、時には工場を訪ひ製本屋を訪ひして、いろ/\な職業の違つた人達の間に交ることをも樂しみに思つた。あの叢書の最初の製本が出來た日、私は本を積んだ荷車の後について、數寄屋橋から神田の裏神保町まで歩いたことがあつた。丁度雨降り揚句の蒸し/\と暑い日であつた。高い足駄ばきであの神田河岸の乾いた道を踏んで行つた時のことは忘れられない。』
これは『著作と出版』と云ふ題下に最初讀賣新聞へ寄せた感想の一節で、その後、自分の感想集『市井にありて』の中にも入れてあるから、讀者諸君の中には既にそれを讀んだ人もあらうかと思ふ。
今になつて、私は、この『緑蔭叢書』の自費出版が自分等の道を切り開くことに於て深い關係のあつたのに思ひ當る。私は、どうしたら、從來、著作者と出版業者との間に蟠《わだかま》る情實などに拘泥せず、もとつ廣々とした自由な天地へ踏み出して行かれるかと考へ、一方には江戸時代から引き續いて來た作者氣質を脱して、もつと著作者の位置を高めなければならぬと考へて、その結果、この自費出版の方法を思ひ付いたのであつた。
このことは明治年代の文學を振り返つて見る人たちにとつて、あまり、顧みられてゐなかつた。さう云ふ人たちは、私が最初の長篇小説の試みであつた『破戒』が、新しい文學の進出に一轉期を劃したものと云ふ風
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