ゥしわたしのやうに何の支度もなしに、いきなり出掛けて行つたものでも、それを樂しむことが出來てうれしかつた。終に、中古以來の人の日常生活と結びついたもので、能なぞの舞臺面をも彩るものの一つは、扇の活用であることをこゝに書き添へよう。この國の扇は手や足ほどに物を言ふ。あれは外國のオペラなぞにちよつとないものだ。古風な舞なぞからあの扇の働きを引き離しては考へられないくらゐだ。喜多氏方でもあの扇が實によく眼についた。
猶、能のやうな藝術に子供の世界のあまり感じられないのは、どういふ理由であるのか、それもわたしの知りたいと思ふことの一つである。涙の奧にある深い悲哀、笑の奧にある深い微笑、そこまで辿つて行くと、能の藝術に隱れてゐる幽玄といふことに突き當る心地もする。
伊香保土産
にはかに思ひ立つて伊香保まで出掛けた。日頃わたしは避暑の旅に出たこともなく、夏は殆んど東京の町中に暮してゐるが、そのかはり春蠶、秋蠶の後の骨休めを心掛ける農家の人達のやうに、自分の仕事の合間を見てはちよいちよい小さな旅に出掛ける。わたしの足はよく湘南地方へ向く。湯河原あたりへはよく二三日の保養に出掛けて、あの温泉地で長い仕事の疲れを忘れて來る。これは僅かの時間で氣輕に行き得るためでもある。ことしの六月、入梅の頃は、すこし山の方へ向きを變へた。それにわたしに取つては伊香保は初めてでもあつた。
野外は麥の熟する頃で、ところ/″\に濃く青く密集して生長した苗代のあざやかなのも眼についたが、上野驛から高崎まで二時間半ばかりの平野の汽車旅はかなり單調な感じがする。その單調から救はれるのは、次第に近く山容をあらはして來る榛名、妙義、赤城なぞの山々の眺めである。いつ汽車で通つても、あの利根川の流域から上州の山々を望み見る感じは新鮮で、そして深い。あれは東海道邊から足柄連山を望むともちがつて、また別の趣がある。曾て七年の月日を小諸の山の上に送つたことのあるわたしが、東京への往き還りに、あの上州の山々を汽車の窓から望んだことも忘れがたい。
伊香保は思つたほどの山の上でもなく、むしろ山の中腹の位置にあつて、直ぐにも親しめるやうな北向の谷間《たにあひ》であるのもうれしかつた。七月八月はどの旅館も殆んど客で一ぱいと聞くに、わたしが僅かの暇を見つけてからだを養ひに行つたのはそんな入梅の季節だから、湯の客もすくない時であつた。でも、あゝした湯治場のさびしくひつそりとした時に行き合はせたのもわるくない。この伊香保行にはわたしはかねて籾山梓月君から贈られた伊香保日記を旅の鞄の中に入れて行つた。それは同君が鎌倉での日記と一緒に合卷としてあるもので、かねて非賣品として知人の間に分けられたほどの心づくしの册子であるが、自分にも贈つて貰つた時から最早五年の月日がたち、長いこと讀み返して見る折もなく本箱の中にしまつて置いてあつたものだ。さすがに朝夕をおろそかにしない人の心を籠めて書いたものは、何年たつて開いて見ても好い。土を踏まないこと五十日、とその日記の最初に出てゐる病後らしい消息の記事が先づ身にしみた。家を出るにもそゞろに足が行きなやんで、たちまち眼もくるめくとある。
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年寄に留守をあづけて秋の旅
唐黍《たうきび》は採りてたうべよ留守のほど
朝顏の垣根に寄るや暇乞
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これらはその日記の中に見える首途《かどで》の吟で、人をいたはり、又みづからをいたはる病後の思ひがにじむばかりに出てゐる。殊に、年寄に留守をあづけてと何氣なくうち出してある述懷には心をひかれた。さういふわたしは自分一人ぎりの旅でもない。川越から上京した老母に留守を頼み、妻同伴でこの保養に出掛けて來た。
その日記の中に、『あんこ別れ』といふ伊香保言葉が出てゐる。この温泉地へ通ふ電車や自動車の便もまだなかつた昔は、毎年の夏、山駕籠をかつぐ男が湯の客の送り迎へに、麓の村々から集まつて來るものも多かつたとか。そろ/\山も寒く、湯の客も散ずる季節を迎へると、九月十五日といふ日の晩を期して、仲間のもの一同が互に慰勞の酒を酌みかはす。伊香保にとゞまつて山かせぎするものも、山を降りて思ひ/\の家路に就かうとするものも、こぞり、つどつて、その一夜を飮みあかすことを駕籠かきどもの『あんこ別れ』といふよしである。
この『あんこ別れ』の一語には伊香保の昔が殘つてゐて、今でもそれを感じられるやうに思はれるが、しかしその言葉の意味は最早土地のものにもはつきりしない。伊香保日記の筆者もそのことを言つて、あんこはあの子であらうか、そんなら、あんこ別れはあの子別れである、馴染の女に別れるといふこゝろであらうと書いてある。このことは土地のものに尋ねて見てもはつきりしないと言つてゐた。わたしたちはあんこ別れの昔を感ずることは出來ても、それを説き明すといふことは出來ない。しかし、『あんこ』といふことは、わたしの郷里の方でも言ふ。木曾では女馬をあんこ馬とも言ふ。あんこ別れはしばらく馴染になつた土地の女子に別れるの意味であらう。
わたしたちが澁川から伊香保に着いたのは、晴れたり曇つたりするやうな日の午後で、時に薄い泄れ日が谷の窪地に射して來たり、時に雷雨がやつて來たりした。輕井澤あたりのやうな空氣の乾く高原地へ行つたともちがひ、わたしたちは山の中腹の位置に身を置いて、思ふさま、うち濕つた山氣を呼吸することが出來た。一方に空がひらけて、旅館にゐながらでも、遠い山々を望むことの出來るやうなところだ。秋はさぞかしと思はれる。
こゝへ來て聽きつける小鳥の聲も、わたしには自分の郷里を思ひ出させる。あの木曾山に多い、杉、檜、それから栗の林なぞは、この伊香保の里にもある。こゝは自分の郷里ほど深い谷間でもなく、又、あれほど大きな森林地帶でもないが、そのかはり自分の郷里にはないものがある。熱すぎるくらゐであるが、しかし豐富な山の湯がある。
伊香保の里が水に乏しいことも、また自分の郷里を思ひ出させる。ケエブル・カアで登つて行つて見れば、山上には榛名湖のやうなところがあつて、鯉、鮒、さてはわかさぎなぞの養へるほどな水を湛へながら、田畠を開拓しようにも灌漑の方法もなく、熱い温泉をうめる水もないとは、不思議なくらゐのところだ。先年の伊香保の大火もまたそのためと聞く。同じ古い温泉地でも熱海のやうに無制限な發展の出來ないのは、かうした自然の制約があるからで、そこに土地の人達の惱みもあらうと察せらるゝ。そのかはり、こゝの山間には好い清水が湧く。その清さ、たまやかさは海岸の地方にないものだとのことである。ある人の言葉に、溪水を飮む地方の人は心までも潔《きよ》いとやら。日頃飮む水の輕さ、重さ、荒さ、やはらかさが、自然とわたしたちの體質や氣質にまで影響することはありさうに思はれる。その意味から言つて、伊香保がどことなく田舍めき、他の温泉地に見るやうな華美がすくなく、土地のものはむしろ昔ながらの質朴を誇つてゐるといふのも、偶然ではないかも知れない。
山の湯たりとも人の發掘したものには相違ない。昔の人はこゝに神佛禮拜の靈場を結びつけ、今の人はスキイ場なぞの娯樂と運動の機關を結びつける。さういふ舊いものと新しいものとがこゝには同棲してゐる。二百年も以前から代々この地にあつて湯宿を營むことを誇りとし今だに本家分家の區別をやかましく言ふやうな古めかしさは、おそらく近代的なケエブル・カアの設備やその大仕掛な電氣事業とよく調和しないやうなものであるが、それがこの温泉地にあつては左程の不調和でないのも不思議だ。まつたく、どこの温泉地にも見つけるやうな卑俗なものから、一切を洗ひきよめるやうな自然なものまでが一緒になつて、しかもその不調和を忘れさせるといふのも、温泉の徳であらう。
旅に來ては口に合ふ食物もすくない。わたしたちのやうに往復三日ぐらゐの豫定で來て、山の見える旅館の二階にでも寢轉んで行けばそれで滿足するほどのものは、知らない土地へ來て何もそんなに多くを求めるではない。でも、何程わたしたちはこの短い保養を樂しみにしてやつて來たか知れない。せめて自分等の口に合ふ山家料理になりと有りつくことが出來たらばと思ふ。いそがしく物を煮て出さなければ成らないかうした湯宿なぞで、種々な好みも違へば、年齡も違ふ男女の客を相手に、誰をも滿足させるやうな包丁の使ひ分けや、鹽加減といふものはあり得ないかも知れないのだ。しかし、山の蕨《わらび》が膳に上る季節でありながら、それを甘辛《あまから》に煮つけてしまつたでは、折角の新鮮な山の物の風味に乏しい。惜しいことだ。これはわたしたちばかりでもないと見えて、伊香保へ入湯に出掛けた親戚のものなぞは皆それを言ふ。ともあれ、これほど樂しみにしてやつて來て、快い温泉に身を浸すことが出來れば、それだけでもわたしたちには澤山だつた。わたしたちはまた、この温泉地に縁故の深い故徳富蘆花君の噂なぞを土地のものから聞くだけにも滿足して、歸りの土産には伊香保名物の粽《ちまき》、饅頭、それから東京の留守宅の方にわたしたちを待ち受けてゐて呉れる年寄のために木細工の刻煙草入なぞを求めた。
山を降りる時のわたしたちの自動車には、一人の宿の女中をも乘せた。その女中は齒の療治に行きたいが、澁川まで一緒に乘せて行つては呉れまいかと言ふ。これも東海道の旅にはない圖であつた。
京都日記
六月八日。
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川越の老母、昨日上京。わたしたちの京都行が川越へも知らせてあつたので、留守居かた/″\出て來て呉れた。家内の實母は根が東京の人であるところから、わたしの仕事のあひまを見ては、一年に四度づゝはかならず上京し、吾家に滯在することを樂しみにしてゐる。
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九日。
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きのふは一日手紙を書いて暮した。あれも、これも、と心にかゝることはありながら、最早何となく小旅行の氣分が浮んで來た。旅する豫定の日數も短かいから、出掛ける前日をも旅のうちに數へて、けふは細見京繪圖大全としてある文久版の古い京都の地圖なぞを取り出して見た。
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十日。
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京都蛸藥師通り富小路西入る、千切屋に投宿。
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十一日。
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朝早く中京の町を歩いて見た。この小さな旅には家内を連れて來て、若王寺にある和辻君の家族を訪ねるといふたのしみがあつた。さすがに清げに住みなしてあつた。六疊の客間には座蒲團が五つに、煙草盆が三つも出た。晝すこし前に、和辻君に案内されて君の書齋を見、眺望のある二階の部屋へも上つて見た。夏はその二階も暑いと聞くが、でもそんなところに寢ころんで、青い楓の映る天井を眺めながら、裏山の小鳥の聲でも聽いて見たらばと思ふやうなところだ。軒先には枝ぶりおもしろい梨の木もあつて、その風情のある青い葉が客間からも食堂からも見られた。それが花から實に變る頃には澁くて食はれない『かりん』の實に似たものが成るとの細君の話も出た。果樹として無能無用に近いこんな梨の木ではあるが、風にも日の光にも敏感で、君が家族のすべての人達に愛されてゐた。
午後、和辻君は紫野の大徳寺へ案内しようと言つて呉れた。一臺の自動車は君等を載せ、お孃さんを載せ、元氣な夏彦君を載せ、家内とは舊い馴染の信子さんを載せ、そこへわたしたちまで割り込んだ時は車の上は二家族のものでこぼれるばかり。乘つて行つた先は洛北の地で、あの額田女王の古歌にある紫野のあととはこゝかとも想像して見たが、そのことはよく分らない。西陣の工藝地を通り過ぎて行つたところに大徳寺の古めかしい境内があつた。一休禪師の木像の安置してある眞珠庵を訪ねて、その一隅に遺つた利休の茶室を見る。庵主の僧も不在の時で、茶室の窓々はしめきつてあつたから、そこいらは薄暗い。僅かに案内の少年があけて呉れた一方の窓から古い床の間の壁に射し入る光線があるばかり。わたしたちは昔の人の意匠を前にして、心靜かに時を送るこ
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