゚まで耳について、毎日三十度以上の熱した都會の空氣の中では夜はあつても無いにもひとしかつた。わたしは古人の隱逸を學ぶでも何でもなく、何とかしてこの暑苦を凌がうがためのわざくれから、家の前の狹い露地に十四五本ばかりの竹を立て、三間ほどの垣を結んで、そこに朝顏を植ゑた。といふは、隣家にめぐらしてある高いトタン塀から來る反射が、まともにわたしの家の入口の格子をも露地に接した窓をも射るからであつた。わたしはまだ日の出ないうちに朝顏に水をそゝぐことの發育を促すに好い方法であると知つて、それを毎朝の日課のやうにしてゐるうちに、そこにも可憐な秋草の成長を見た。花のさま/″\、葉のさま/″\、蔓のさま/″\を見ても、朝顏はかなり古い草かと思ふ。蒸暑く寢苦しい夜を送つた後なぞ、わたしは町の空の白まないうちに起きて、夜明け前の靜かさを樂しむこともある。二階の窓をあけて見ると、まだ垣も暗い。そのうちに、紅と藍色とのまじつたものを基調の色素にして瑠璃にも行けば柿色にも薄むらさきにも行き、その極は白にも行くやうな花の顏がほのかに見えて來る。物數寄《ものずき》な家族のもののあつまりのことで、花の風情を人の姿に見立て、あるものには大音羽屋、あるものには橘屋、あるものには勉強家などの名がついたといふのも、見るからにみづ/\しい生氣を呼吸する草の一もとを頼まうとするからの戲れであつた。時には、大森の方から魚を賣りに來る男が狹い露地に荷をおろし、蕾を見せた草の根を踏み折ることなぞもあつた。そよとの風も部屋にない暑い日ざかりにも、その垣の前ばかりは坂に續く石段の方から通つて來るかすかな風を感ずる。わたしはその前を往つたり來たりして、曾て朝顏狂と言はれたほどこの花に凝つた鮫島理學士のことを思ひ出す。手長、獅子、牡丹なぞの講釋を聞かせて呉れたあの理學士の聲はまだわたしの耳にある。今度わたしはその人の愛したものを自分でもすこしばかり植ゑて見て、どの草でも花咲くさかりの時を持たないものはないことを知つた。おそらくどんな藝術家でも花の純粹を譯出することは不可能だと言つて見せたロダンのやうな人もあるが、その言葉に籠る眞實も思ひ當る。朝顏を秋草といふは、いつの頃から誰の言ひ出したことかは知らないが、梅雨あけから秋風までも味はせて呉れるこんな花もめづらしいと思ふ。わたしがこれを書いてゐるのは九月の十二日だ。新涼の秋氣はすでに二階の部屋にも滿ちて來た。この一夏の間、わたしは例年の三分の一に當るほども自分の仕事をなし得ず、せめて煩はなかつただけでもありがたいと思へと人に言はれて、僅かに慰めるほどの日を送つて來たが、花はその間に二日休んだだけで、垣のどこかに眸《ひとみ》を見開かないといふ朝とてもなかつた。今朝も、わたしの家では、十八九輪もの眼のさめるやうなやつが互の小さな生命を競ひ合ふやうに咲いてゐる。これから追々と花も小さくなつて、秋深い空氣の中に咲き殘るのもまた捨てがたい風情があらう。

     このごろの日課

 海に山に暑さを避けようとする人も多い中で、わたしはこれまで殆んど避暑といふことに出掛けたことのないものの一人だ。夏の凌ぎがたいのは、むしろ梅雨明けのころで、それを通り越せばわたしたちのからだもいくらか暑さに慣れて來る。それに夏は自分の好きな季節でもあつて、暑くてもなんでも割合に仕事の出來るところから、この町中を離れる氣にならない。こゝろみに、このごろの日課を書きつけて見る。

 怠けものの體操。これは一名エキサアサイズ・オン・ゼ・ベッドで、半身づゝの極靜かな運動である。枕の上で寢ながら出來るところから、なまけものの體操の名がある。鷄の鳴聲を聞きつけるころに眼をさましてそのまま枕の上で運動にとりかゝる。末梢より中樞に及ぼし、あるひは中樞より末梢に及ぼす。約三十分ばかり。
 朝早く火鉢の火をつぎ鐵瓶の湯の沸くやうにして置いて、それから朝顏の根に水をそゝぎに行く。去年からわたしはこんな朝顏の培養をはじめたが、これは風雅でも洒落でもなく、隣家の高いトタン塀から來る烈しい日光の反射を防がうがための必要から思ひついたことであつた。でも、早曉の草の手入れは、そのことがすでに爽かで涼しい。地を割つて頭を持ち上げる貝割葉のころから一つとして同じものもないやうな朝顏の中には、最早三尺あまりも自然な蔓の姿を見せて、七月はじめの生氣を呼吸してゐるのもある。

 朝茶。小一時間ばかりの朝茶の時がわたしには一日の中の樂しい靜坐の時である。外國の作者の書いたものを見ると、朝早く屋外を一※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りして一時間ばかりを散歩の時にあて、それから歸つて來て自分でコーヒイを沸かし、いはゆるプッチ・デヂュネといふやつをとるやうな習慣の人もあつたやうであるが、しかし、仕事を控へての早朝の散歩もどんなものか。
 ずつと以前淺草新片町の方に住んだころ、わたしもよく夏の朝の散歩に出て隅田川の岸などを歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つたものだが、あのころは午前の十一時ごろから仕事にとりかゝつて、おもに午後に働いた。家のものの寢しずまる深夜のころまで机にむかつてゐて、どうかすると一番鷄の聲を聞いたこともある。ところが、このごろはおもに午前中を仕事にあてたいと思ふものだから、朝早くそこいらを歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]るとなると、いろ/\見つける物象も多いかはりに、どうも氣が散つて困る。やはり今のわたしには靜かにしてゐる方がいゝ。たまには家のものを連れ、月島の魚河岸の方まで出掛けて行つて、そこで探した鮮魚なぞを提げながら、朝飯前に歸つて來ることもあるが、そんなことはまづ例外だ。

 朝食。毎朝簡單に茶粥で濟ませる。一ころはオート・ミイルを試みたこともあつたが、どうしたものか町で賣る品も粗惡なものばかりになつて、だん/\自分の口には適しなくなつた。茶粥二椀、牛乳一合、その用ゐ方は殆んどオート・ミイルの場合と同じだ。これがまたわたしの好物の一つだ。奈良の方の寺では茶粥に里芋をまぜるといふ話をある人から聞いて、それも試みたことがあるが、すこし味が重くなるかと思ふ。野菜のスープに燒昆布を入れて造ることはわたしの思ひ付きだが、そんなものでもあれば朝の食事は一層樂しい。
 今のわたしに夏が好いといふことの一つは、日の長いといふことでもある。なるべくわたしは午前中に自分の仕事を濟ますやうにしてゐる。

     小半日
[#天から10字下げ](戸川秋骨君に誘はれて喜多氏方例會の席に小半日を送る)

 曾て山陰の旅に出掛けて、石見《いはみ》の國益田にある古い寺院の奧に、雪舟の遺した庭を訪ねたことがあつた。古大家の意匠を前にして、わたしはしばらく旅の時を送つて來た。近代の曙はまだそんなところに殘つて、私の眼前《めのまへ》に息づいてゐるやうであつた。しかもそこにある草木はみな新葉を着けてゐて、その古い庭の意匠と生々とした草木の新しさとの混じ合つたところから、わたしは言ふに言はれぬ深い感じに打たれたことを覺えてゐる。喜多氏方の例會に來て、その見物席に身を置いた時のわたしの感じがそれだ。その舞臺で演ぜらるゝことは近代の極早い頃から流れ傳はつた古人の意匠を受け繼ぎ受け繼ぎして來たものであらうが、しかも舞臺の上の人はみな新しい。

 能の舞臺には一曲ごとに變化する背景もない。幕といふものもない。たゞ松の緑の構圖を以てした簡素な板戸があるのみだ。そこには一切の陰影となるべきものを悉く追ひ出してあるやうに見える。この單調を破つて、平地に波瀾を引き起すことは容易でない。先づ基調を起して來る笛、引き續いて起る大鼓小鼓の音、その間にまじる驚くばかり激しい掛け聲、それらの甲高《かんだか》く強い音と、やさしく柔い音との調節にはじまつて、やがて肉聲の合唱が續く。わたしたちのまご/\してゐる心はいつの間にか劇中の世界へと連れて行かれる。能の演技にあつてはこのオーケストラなり、コオラスなりの働きが一通りでないことを知る。

 能の舞臺の位置は、所謂アンフィシヤタア風の演技場に比べて、ずつと高い。仰ぎ見るほどの位置にはあつても、見おろすやうな位置には造られてない。この位置の高さは、舞臺の正面の前に、あるひはその周圍に、ある空虚な深さをつくる。舞臺に立つ能役者が正面の柱の側まで進み出でゝ來る時に、殊にその效果を感じ過ぎるくらゐだ。

 古い散樂と言つた時代から能樂に移る頃の舞臺の構造はどんなものであつたらうか。あの舞臺の上部に原形を殘したやうな屋根の形といひ、三方より見られるやうに露出した舞臺面の意匠といひ、日光の導き方から、ある意味での光線の無視といひ、正面の背景、隱れた樂屋の位置、すべてが屋外の裝置でないものはないやうな氣がする。言つて見るなら、今見る能の舞臺といふものはもつと日光の滿ちた屋外へこのまゝ持ち出すことも出來ようといふ氣さへして來る。能の演技からわたしたちの受ける印象は、繪畫的であるよりも、むしろ彫刻的であるが、さういふ印象の起つて來るといふのも、一つはその舞臺の構造、裝置、あるひはその高さなぞの約束にもとづくことを思ふ。

 能には、殘存した中世そのまゝのやうな稚拙がある。

 近代の曙らしい憂鬱も感じられる。

 それにしても、あの充實した感じはどうだ、舞臺はさながら嚴肅な道場のやうにさへ見える時がある。

 こんなに美しいものが殘つてゐるのに、それを知らずにゐたのかと思ふほどわたしを驚かしたのは、喜多六平太氏が受持つた役の蝉丸の面だ。わたしたちは生きてゐる人の動いた顏に行くよりも、反つてあの一見靜物のやうな面により多くの表情と、感動と、性格とを見出す。六平太氏があの蝉丸の面をつけて、長いこと動かずにわたしたちの前に立つてゐた時は、無量の思ひの籠る彫刻を見る感じがした。すぐれた能役者のあらはして見せるものは、その姿勢の一つ/\が彫刻そのまゝであるかとも思ふ。

 蝉丸は王子である。何故にあの盲目な王子が父の帝によりて捨てられねばならなかつたか、その作者の意圖ははつきりとわたしたちの胸に來ない。わたしの想像によると、蝉丸は中世風な苦行者の首途《かどで》に置かれた王子であつて、父なる帝はその子に解脱への道を教へたものであらうと考へるが、これはわたしの想像であるに過ぎない。おそらく中世の昔の人達はあの作者の意圖を今日のわたしたちより遙かによく汲み取つたであらう。それにひきかへて、不幸な王子の姿はあり/\とわたしたちの眼に浮ぶ。作者の説き明さうとするものが時と共に失はれて來た後世になつても、その人の感じたものだけはこんなに長く殘つてゐることが思はれる。

 わたしはこの年になるまで、僅かに三度しか能樂堂に足を踏み入れたことがない。一度は寶生の舞臺に俊寛を見た時。一度は同じ舞臺に安宅を見た時。今一度がこの喜多氏方だ。戸川君がわたしのために六平太氏の蝉丸を選んで誘つて呉れたのはありがたかつた。わたしはまだ高砂を見たことがない。六平太氏のやうなすぐれた能役者によりて演ぜらるゝ高砂は、わたしの見たいと思ふものの一つだ。

 謠曲が純粹な佛教時代の文學であるといふことは、わたしには疑問である。本地垂跡の教と、その後に來る兩部神道との發達した中間の時代へ持つて行つて、謠曲の文學を考へて見たい氣がする。

 能について書かれたもののうち、戸川君がその隨筆集に載せた一文はよくわたしの胸に浮ぶ。あれは好い隨筆だつた。能の持つ特色についていろ/\なことをわたしに教へて呉れたのもあの隨筆だ。たしか魚の活き返るおもしろい物語、地獄に墮ちて苦しむ男の物語なぞがいかに能舞臺の上で表現されるかも、あの中に書かれてあつたと覺えてゐる。野口米次郎君も能について數篇の詩文を書かれたことを想ひ起す。舞臺の上に動く能役者の足どりとその白い足袋の感じが、水中に動く魚に譬へてあつたやうだが、あの美しい形容も忘れがたい。

 これを書いてゐると、わたしの側に人があつて、能を見るには相應な支度のいることをわたしに言つて見せた。し
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