|リに向ひ、途中古希臘式殿堂の造りを見、歸路にはボロニヤ、ミラン等を經、二十日過ぎリオンに立ち歸り、月末には巴里に入る豫定に候。シモネエによろしく。羅馬にて。』
十月二十九日[#地から5字上げ]梢
これは千九百十三年の秋に君から屆いたものだ。戰時になつて君は英吉利の方にあの混亂を避け、わたしは巴里に踏みとゞまつてゐたが、倫敦からもよく君の便りを貰つた。その中の殘つた葉書の一つに、
『この頃はいかにお暮しですか。さびしき夜、火にあたりて物思ふ時なぞは、よくあなたの事を思ひ出してしみじみとお話したくなります。をこがましいやうですけれども、お慰めしたいなぞと考へたりします。ミュンヘンにありし時のことなぞまで獨りで思ひ出してゐます。非常に親しく交つた學生なぞも戰地に行つてゐます。生死も分りません。當地にて阿部君とはよく一緒になります。』
とある。今一つの繪葉書の殘つたのはストラットフォド・オブ・エデンからとしてあるもので、
『先日の長いお手紙はどんなにか私を喜ばせたでせう。御返事も遲れて甚だすみません。今日は此地に沙翁誕生記念演劇あるを幸ひ、阿部君と詩人の生地にやつて來ました。今晩は※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ニスの商人です。町も村も輕い緑の芽を出しましたけれど、風が底冷く吹いて妙に旅の愁を催させます。明後日あたり倫敦に歸ります。』
ともある。
いかに多感多愁の人が君の内部に隱れてゐたかは、これらの葉書便りに殘つた僅かの言葉にも窺はれる。この多感多愁は早く君をしてオスカア・ワイルドのやうな耽美的な傾向を持たせ、又、一面にはハイネの激情を思ひ出させるところのものであつたらう。君が生涯のずつと終りに近くなつて、おのづから君の口に上つて來たやうな短歌の製作を君は何よりの心やりとせられたと聞くが、この多感多愁は脈々として終りまで君の内部に流れてゐたものではなかつたらうかと思ふ。かういふ澤木君にも、借りたものは必ず返し、貸したものはまた必ず返して貰ふといふやうに、貸借關係なぞにかけては人に迷惑を掛けないかはりに人からも迷惑を掛けられたくないやうなところがあつて、さういふ點で君はズボラな詩人肌の人とはちがつてゐた。さういふ散文的な一面があればこそ、あれほどキチンとした生活も出來たのだと考へられる。君はわたしと一緒に下宿にゐる間、一度激しく吐血されたこともあつたが、さういふ時でも君には取りみだしたやうな風はすこしもなかつた。
今になつてわたしは君が歐羅巴を旅した足跡を辿つて見る。君は先づ獨逸に行つて、かず/\の近代的なものに觸れた。獨逸、殊に伯林は、あらゆる意味に於いて近代的だとは、よく君の口から聞いたところだ。佛蘭西に來てからの君が近代の繪畫を見る眼は一層深められたやうであつたが、一方にはそこに殘存する中世から十八世紀へかけての藝術――殊に、ゴシックの建築美は君が探求の的の一つとなつたらしい。それからルネッサンス時代の遺物の多い伊太利の旅へと進んで行つた。君がアカデミックでないクラシックの精神に近づくやうになつたのも、伊太利の旅に得るところが多かつたのであらうと思はれる。おそらく旅の事情と君の健康とが許したら、君の足跡は希臘にまで達したであらう。わたしとしてもあのアテエナに君のやうな探求者を置いて考へたかつた。世界の大戰は旅行者の自由を奪つてしまつたのだ。
『三田文學』の追悼録の中には、安倍能成氏が君を惜んだ一文も出てゐる。その中に『今一つ考へることは、澤木君が西洋美術史を通じて西洋文化を根本的に究明しようとして、輕々しく東洋趣味の横道に足を踏込まれなかつた學者的な專一な風格である』とあつたのはうれしかつた。それから、同じ追懷のつゞきに、左の一節は殊にわたしの心をひいた。
『澤木君が東京帝國大學の文學部の講師をして居られた頃でなかつたかと思ふが、一春文學部の學生達に加はつて澤木君と一緒に、奈良京都の美術旅行にいつたことがあつた。その時のことである。唐招提寺金堂の千手觀音の前であの澤山の觀音の手の美的效果に就て澤木君が傍の人と論じてゐたのを記憶する。その時の議論の内容を忘れたが、澤木君の論調には西洋美術のグウを持して容易に東洋美術に許さない樣な所があつた。さうして西洋美術の本筋をそのレアリズムに認めて居られたらしく考へられた。』
いかにも澤木君の面目がはつきりとよく出てゐる。これだ、これが澤木君だ、とわたしはさう思つた。尤も、その時の議論の内容は忘れたと安倍氏が言はれるくらゐだから、わたしには猶更よくは分らないが、澤木君の持説なるレアリズムの内容が他人のそれとどう異なつてゐたか、君はその最も深い根據をどこに置いてゐられたのか、例へばゴシック建築の内部の構造にあらはれてゐるやうな數理の觀念と美との結合が全く東洋美術には缺けたものとせられたのか、それらのことを聞いて見たかつた。
いづれにしてもあの元氣な澤木君がこんなに早く亡くならうとは思ひがけなかつた。わたしたちの周圍は今、いろいろな問題で滿たされてゐる。十年以前と今日とでは歐羅巴もずつと近くなつたやうな氣がする。君のやうに西洋文化を本質から見てかゝらうとする人のあつたことは、それだけでも意味が深い。君は飽くまでその熱意を持ち續けて、もつと長くこの時代に生きてゐて貰ひたかつた。
『根岸の鶯』
『根岸の鶯』とは、最近に出來た故岡野知十君の俳句集『鶯日』に因《ちな》み、またその舊廬『鶯日居』にも因んで、わたしが勝手に呼んで見た根岸の作者のことである。不思議な縁故で、わたしは作者の古巣とも言ふべき『借紅居』を知るところから、やがてその初音を聞きつける頃よりある親しみを覺えて來た。四十年も根氣よく啼きつゞけたといふこの老鶯は、わたしの耳に何をさゝやいて呉れるか。
俳句集『鶯日』は作者の一周忌に際し、その令息や弟子とも友達とも言つていゝ人々なぞの骨折から、故人が風興發句の殆んど全部を蒐めて二卷に編んだ記念の出版である。そのはじめに小泉三申氏の序があつて、その言葉の中に、
[#ここから2字下げ]
『余知十と交ること四十年になむ/\とせり。常に以爲《おもへ》らく、古人の俳人、初めに芭蕉あり、中ごろに蕪村あり、一茶あり、後には知十ありと。敢てみづからその故をあきらめむとはせず、唯みづからこれを信じて疑はざるのみ。』
[#ここで字下げ終わり]
とある。
誰が何と言はうと自分はさう信じて疑はないと言はれるやうなこの序の筆者の言葉は強い。俳人としての知十君は言つて見れば俳諧の暖簾をうけ繼いだ六代目にも七代目にも、あるひはもつと後の代にも當る人で、初代の芭蕉もしくはそこから分れて江戸座の一風を成した其角なぞが出發當時の苦勞はせずに濟んだかと思ふ。あの蕉門の諸詩人が嘗めたやうな虚栗《みなしぐり》時代のにがい彷徨は知十君にはない。そこでわたしは古い俳人のことはしばらく措いて、もつと自分等の時代に近い一茶を引合に出して見ることがおもしろくないかと思つてゐる。さうしたら知十君の特色がはつきりわたしたちの胸に纏まつて浮んで來はしないかと思つて居る。江戸に於ける十年さすらひの生活は芭蕉のやうな人にも都會人らしいところを與へたかと思はれるふしもあるが、一茶はあの中年の長い放浪生活にもかゝはらず、江戸じまぬことおびたゞしい。無器用で、正直で、狹量で、多分の野性に富んでゐて[#「富んでゐて」は底本では「當んでゐて」]、容易に他と調和しがたい一茶が田舍に置いて考へて見たい人なら、『鶯日』の作者はどこまでも東京の水で洗つて洗ひぬいたやうな人である。そこに都會の詩人らしさがある。
心が涼しければ、句もまた涼しい。その涼しさを失はずに持ちつゞけて行つたところから、『鶯日』二卷に溢れてゐるやうなあの活氣と色艶とに富んだ詩情が迸り出て來てゐる。物わかりのよさ、情のあつさなぞは、二卷のどの頁にも見出される。作者はまた、都會の人にして初めて捉へ得るやうなものを實におもしろく短い十七字の形に盛つて見せる感覺の鋭敏さを具へてゐる。これを天稟《てんぴん》と思はないわけにいかない。どうかするとわたしは作者が贈答の句なぞに突き當つて、あまりの輕さにまごつくこともある。
[#天から4字下げ]新年に一つまゐらう松の鮨
いかにも知十君の句らしい。そこには口を衝いて出るやうな才華の煥發があり、わざとらしくないユウモアもある。しかしこの松の鮨ですら、最早淺草代地の名物でもなくなつてゐる。小松が何を食はせる店で、辨松が何の仕出しする家かも分らなくなつて行く日があるとすると、このすぐれた都會の詩人が書いたものにもかなり難解に思はれる部分が殘らう。ともあれ、『鶯日』の作者には、やゝもすると都會の人の陷り易い早呑込みがない。すべてが正味だ。作者は痰を吐く如くに句を作るべしと言つてゐて、虚心平氣ならば何の難いことがあらうかと語つて見せたといふことが、小泉氏の序の中にも見える。この鶯の好い聲はさうざらに聞かれるものとも思はれない。眞似の造り聲ではもとよりない。
[#天から4字下げ]君が手をわがふところに夜寒かな
この句なぞ知十君の生涯の中でいつ頃に出來たものか、その邊はよく知らないが、いかにも眞情がうち出してあつて好ましい。
[#ここから4字下げ]
青簾壁はまだ中塗りのまゝ
いつまでも簾の青き願かな
[#ここで字下げ終わり]
わたしは都會詩人としての知十君の特色をその夏の句に見つけることが多いと思ひ、殊に句の姿も涼しいと思ふものであるが、こゝには盡しがたい。
秋草
過日、わたしはもののはじに、ことしの夏のことを書き添へるつもりで、思はずいろ/\なことを書き、親戚から送つて貰つた桃の葉で僅かに汗疹《あせも》を凌いだこと、遲くまで戸も閉められない眠りがたい夜の多かつたこと、覺えて置かうと思ふこともかなり多いと書いて見た。この稀な大暑を忘れないため、流しつゞけた熱い汗を縁側の前の秋草にでも寄せて、寢言なりと書きつけようと思ふ心持をもその時に引き出された。ことしのやうな年もめづらしい。わたしの住む町のあたりでは秋をも待たないで枯れて行つた草も多い。坂の降り口にある乾き切つた石段の横手の芝なぞもそれだ。日頃懇意な植木屋が呉れた根も淺い鉢植の七草は、これもとつくに死んで行つた仲間だ。この旱天を凌いで、とにもかくにも生きつゞけて來た一二の秋草の姿がわたしの眼にある。多くの山家育ちの人達と同じやうに、わたしも草木なしにはゐられない方だから、これまでいろ/\なものを植ゑるには植ゑて見たが、日當りはわるく、風通しもよくなく、おまけに谷の底のやうなこの町中では、どの草も思ふやうに生長しない。さういふ中で、わたしの好きな※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]《かをりぐさ》だけは殘つた。わたしの家の庭で見せたいものは、と言つたところで、ほんとに猫の額ほどしかないやうな狹いところに僅かの草木があるに過ぎないが、でもこの支那の蘭の花のさかりだけは見せたい。※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]は、春咲く蘭に對して、秋蘭と呼んで見てもいゝもので、かれが長い冬季の霜雪に耐へても蕾を用意するだけの力をもつた北のものなら、これは激しい夏の暑さを凌いで花をつける南のものだ。緑も添ひ、花も白く咲き出る頃は、いかにも清い秋草の感じが深い。この※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]が今は花のさかりである。さう言へば、長く都會に住んで見るほどのもので、町中に來る夏の親しみを覺えないものはなからうが、夏はわたしも好きで、種々な景物や情趣がわたしの心を樂しませる上に、暑くても何でも一年のうちで一番よく働ける書入れ時のやうに思ひ、これまで殆んど避暑の旅に出たこともない。ことしもと、それを樂しみにしてゐるところへこの陽氣だつた。不思議にも、ことしにかぎつて、夏らしい短か夜の感じが殆んどわたしに起つて來ない。好い風の來る夕方もすくなく、露の涼しい朝もすくなければ、曉から鳴く蝉の聲、早朝からはじまるラヂオ體操の掛
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