コで、石井柏亭君や有島生馬君に逢つて、わたしたちはあの『鳴神』の面白さに就いて語り合つた。あれは謠曲の『一角仙人』から來たものと聞くが、婦人の名が雲の絶間姫といふことからしてをかしくもあるし、曲の主要な部分が假白《こわいろ》から成つてゐて、音曲はたゞそれを導き出すやうに作られてあるのも、歌舞伎としてはめづらしい。不思議にも、わたしは樂しく燃える蝋燭の火でも望むやうに、あの血の氣の通つた舞臺を靜かに眺めることが出來た。そこに人間性に觸れることの深いユウモアの力があると思つた。あの中には、行ひすました行者が美しい婦人の誘惑に神通力を失ひ、戒壇の上から轉がり落ちる場面なぞがある。自分はまだ笑へる、さう考へて歸つて來た時はうれしかつた。
過去に於いて、この國に深い笑を持ち來したものは、何と言つても徳川時代の俳諧の作者であらう。わたしが芭蕉を愛し、丈草、去來、凡兆等の蕉門の作者を思ふのは、古人等が淺い滑稽から出發してそれを好いユウモアにまで深めて行つたところにある。古人等には風狂の説があつて、この世のさびしさの中にも笑ふことを教へて呉れる。わたしは又その意味に於いて西鶴の機智に感じ、徳川の世もさかりを過ぎた頃に一茶のやうな作者の生きてゐたといふことにも心をひかれる。
ごめん下さい
『先生――ごめん下さい、新年早々から。』
ことしの正月のことであつた。ある未知の少年から、かういふ書出しの葉書を貰つた。それには可愛らしい筆蹟で次のやうな言葉も認めてあつた。
『でも僕、氣にかゝつて仕方がないのです。といふのは、先生がいつも「達」といふ字を間違つてゐられるからです。こんなことは、どうでもいゝのですが、どうも先生の御寫眞を見てをりますと氣にかゝりますので、お知らせいたします。今年もよいお仕事をして下さい。』
とある。
これには、わたしも赤面した。成程、この未知の少年が教へてよこして呉れた通り、わたしはいつも『達』といふ字を間違つて書いてゐた。そして自分等の年若な時分に一度間違つて覺え込んだことは、何十年經つても容易にそれを改めることは出來ないものだと思つた。
餞の言葉
[#天から10字下げ](新潮社發行大衆雜誌『日の出』の創刊に際して)
『日の出』の編輯氏から、その創刊號のはじに何か書きつけることを求められた。月々の讀者を相手にする雜誌發行のことは書物を出版するとも違ひ、言はゞ長く置けない鮮魚を魚河岸へ送り出すやうなものであらうし、殊にその雜誌の趣意は今々河岸へ着いたばかりの魚のやうなイキの新しさを求めるばかりでなく、一般の讀者にもわかり易く味はれ易い平談俗語を主とすることであらうと思はれるから、自分もまたそんな輕い氣持ですこしばかりの寢言を書きつけ、それを餞《はなむけ》の言葉にかへよう。
『日の出』で思ひ出す。古い傳説によると、曾て太陽は天の岩屋に隱れてしまつたことがあつた。この世は全く長い夜の連續であつた。そこへ思慮の深い『知識』の神が來た。『知識』の神はこの世に日の出の遠くないことを感づいて、夜明けを告げるために澤山な鷄を集めた。常夜《とこよ》の長鳴鳥《ながなきどり》といふものの聲が闇の空を破つて遠くにも近くにも起つたが、そこいらはまだ暗かつた。そこへ今度は逞しい『力』の神が來た。いかな『力』の神でも、堅く閉ぢた岩屋の扉をこじあけることは出來ない。岩屋の前には、鍛冶に造らせた眞鐵《まがね》の鏡を持つて來て暗黒を照して見る『眞《まこと》』の神もある。玉造りに造らせた珠を持つて來て見る『徳』の神もある。枝葉の茂つた常磐木《ときはぎ》をそこへ運んで來て、一切の穢汚《きたな》いもの、あさましいものを拂ひきよめるために、青い布や白い布をその枝にかけて見る『淨化』の神もある。あるひは樺の皮を用ゐて占卜《うらなひ》に餘念もない『豫言』の神まである。これだけの神が揃つても、天の岩屋に隱れた太陽をどうすることも出來なかつた。最後に、そこへ面白い恰好をした女神が來た。この女神は日蔭《ひかげ》の葛《かづら》を襷にかけ、正木《まさき》の葛《かづら》の鉢卷をして、笹の葉を手に持ち、足拍子を取りながら扉の前で踊り出すといふ滑稽さであつた。のみならず、神が人間に乘り移つた時のやうな姿をして、恥かしい乳をあらはして見せ、腰から下には裳の紐をぶらさげた。それを見て笑はない神々はなかつたといふ。さすがの堅い岩屋の扉が細目に開けたのはその時であつた。『知識』でも、『力』でも、『眞』でも、『徳』でも、『淨化』でも、『豫言』でも、いかなる神の力でも開かれなかつた天の岩戸が、『笑』の女神の力によつて開かれた。
わたしは戲れにこんな古い傳説を持ち出した譯ではない。『眞』の鏡も、太陽に向つてそれを光らせる時にのみ役立つことを語りたいのである。大きな『力』も、太陽が岩戸からやゝ姿をあらはしかけた時に、その手を執つて引き出すことにのみ役立つたことを語りたいのである。何と言つても、『笑』の力は大きかつた。そこから日の光もあらはれ、大地も微笑み、神も人と交つた。
さて、雜誌『日の出』がどういふ讀物を滿載して、多くの讀者を樂しませようとするのであるか、それをわたしは、言つて見ることも出來ない。襷、鉢卷、足拍子の面白さは、當時流行のエロ、グロ、ナンセンスであつても構はない。願はくは、それがわたしたちの内にも外にも高く太陽を掲げるためのものであつて欲しい。暗い岩戸を押しひらいて、知らず識らずのうちに、大衆を高めることの出來るやうな、好い滑稽が溢れたものであつて欲しい。
東歌
[#天から4字下げ]夏麻引《なつそび》く海上潟《うなかみがた》の沖つ渚《す》に船はとゞめむさ夜ふけにけり
後の代のものがどの程度まで遠い過去の藝術に入つて行けるかといふことは、よくわたしに起つて來る疑問であるが、謠曲の蝉丸を喜多六平太氏方の能舞臺に見た時、原作者の説き明さうとしたものが時と共に失はれ來た後世になつても、その人の感じたものだけは長く殘つてゐることに氣がついた。萬葉の古歌に就いても同じやうなことが言はれよう。この東歌は、人も知るごとく上總《かづさ》の國の歌として、卷十四に載せてある雜歌である。わたしはこの歌を感ずることは出來ても、十分に説き明すことは出來ない。萬葉の古歌がさう完全にはわからないことは、良寛のやうな人の書き殘したものにも見える。たゞその感じ得られる部分が、この東歌にはいかにも深い。何度繰り返して見ても盡きない趣がある。
澤木梢君のおもひで
澤木梢君が亡くなつた後、『三田文學』では特に記念號を出して、君を記念するために多くの頁を割いた。いろ/\な方面の人達からの追悼録があつめてあつて、しかもその多くが通り一遍の美しい言葉で君の生涯を埋めてしまふやうなものでないのには感心した。その中には知己友人の持ち寄つた澤木君らしい逸話もあり、曾ては君の教へ子であつたといふ人達の率直な印象も語つてある。
どうして、人が亡くなつた後になつて、こんな風に語られるといふ場合がさうざらにあらうとも思はれない。君の性格が性格だから、だん/\話の合ふ人もすくなくなつて行つたかと思はれるし、殊に病苦と戰ふやうになつてから、ずつと引籠りがちに暮されたやうで、長くもない君が生涯の終りには、かなり寂しくこの世を辭して行かれたかと想像せられるが、しかし君の亡き後になつて、こんなに舊知の人達から本當のことを言つて貰へるところを見ると、やはり君には人と違つたところがあつたと思はれる。
わたしが澤木君を知つたのは佛蘭西の旅にある頃であつた。君はわたしよりも早く歐羅巴の方に渡つてゐて、南獨逸のミュンヘンからわたしのゐた巴里の下宿へ夏を送りに來た。そんなわけで、あの佛蘭西の旅を思ひ出し、巴里の町を思ひ出し、そこにあつた下宿を思ひ出すことが、わたしに取つては澤木君を思ひ出すことになる。ブウル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]アル・ポオル・ロワイアル、八十六番地。そこは巴里のサン・ジャックの古いごちや/\とした町と、ポオル・ロワイアルの電車通りとの交叉した角にあたる。石造と言ひたいがその實は所謂|羅甸《ラテン》區の界隈によく見かける塗屋風の建物だ。それでも七層の高さがあつて、第一階から上には二十家族を容れるほどのアパアトマンがあり、階下の歩道に接したところは粗末な珈琲店を兼ねた煙草屋、その他の店が佛蘭西風の暖簾《のれん》を並べてゐた。その第二階の左側に佛蘭西中部地方出のシモネエといふお婆さんが五間ほどの部屋を借り、下女を一人使つて下宿をやつてゐた。プラタナスの並木町の歩道に接して、高い堅牢な二枚戸の入口がある。壁に添うて螺旋形の階段がある。短いズボンに空脛《からずね》をあらはした子供、前垂掛けでスリッパをはいた下女、松葉杖を手にした背蟲《せむし》の男なぞが、その階段を昇つたり降りたりしてゐる。第二階の扉を押すと、廊下がそこに續いてゐて、七層の建物を圍む深い内庭の石を敷きつめた空地が窓の外にある。わたしが初めて澤木君を迎へたのも、その煤けた色硝子のはまつた薄暗い窓の側であつた。
君の部屋を思ひ出して見る。
[#ここから5字下げ、31字詰め、3段組、罫囲み]
壁の上に銅板畫の額。置箪笥は鏡張りで、人の姿が映る。この箪笥の側に旅行用の鞄、杖、洋傘などいろ/\
窓
ゴブラン織の厚い窓掛、別にレエスの窓掛。窓に向つて机、肘掛椅子、堅い椅子、敷物
洗面臺
暖爐
寢臺(燭臺置物、便器入れ兼用)
部屋の入口の扉
[#ここで字下げ終わり]
この寢臺、置箪笥、ゴブラン織の窓掛なぞは部屋についた造作と見ていゝ。洗面臺の上には造花模樣の陶製洗面器と、同じ陶製の水さしとが置いてあつたが、下宿のあるところから遠くないゴブランの町の陶器店で手に入れ得る程度のものだ。石造の暖爐の上は床の間の感じに近い。そこには古い置時計や、白い蝋燭をさした燭臺や、ランプや、その他にロココ式の古めかしい置物なぞがうるさいほどに並べてあつたと覺えてゐる。入口の扉の外は暗い廊下で、一方は食堂に續き、一方は狹い臺所と雪隱とにも近い。おそらく潔癖な澤木君はこの部屋に多くの薄ぎたないものを見つけたであらう。ちやうど君がわたしの下宿へ見えた時は、他に明き間もなくて、この部屋で我慢して貰つたが、たゞ廣いばかりで落ちつきもなくお氣の毒なくらゐのところだつた。こんなことをこゝに書きつけて見るのも他ではない。實は、そこにあつた寢臺なり、洗面器なり、青々とした葉かげの深いプラタナスの並木の枝から向ふの町の空に天文臺の圓い塔まで見えた窓の側なりは、このわたしに取つて君の記憶と引きはなしては考へられないくらゐである。のみならず、壁一重隔てた隣りの部屋はわたしが三年の月日を送つたところで、澤木君が顏を洗ふ音でも、窓をあける音でも、部屋を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る音でも、そこにゐてわたしは手に取るやうに聞くことが出來たからであつた。
澤木君はいかなる場合にも十分な支度をして置いて、それから事に當るといふ風の人であつたらしい。君はわたしの下宿に見える前に、ミュンヘンの方で佛蘭西美術を探ぐるに必要な支度を十分にして來た。だから巴里へ來たばかりの時に既に相應な佛蘭西美術の知識を持ち、その方面の消息にも通じてゐて、どこへ行けば何があるぐらゐの見當はおほよそはじめからついてゐた。さういふ澤木君のことだから、その後、伊太利の旅に出掛ける時にもかなりの支度があつたらうと思ふ。おそらく君の足がまだ伊太利の國境をも越えない前から、君の内にあるあの熱心な鋭い眼はアッシッシの丘にあるサン・フランチェスコの寺を見、羅馬にあるフォラムの殘礎をさまよつてゐたらうかと思はれる。君から貰つた歐羅巴での旅の消息は今、いくらもわたしの手許に殘つてゐない。僅かに數葉の繪葉書しか殘つてゐない。
『歐羅巴の秋の美は筆紙に盡しがたく候。大島氏にも御紹介によりて大に便宜を得、感謝に堪へず候。來月七日ナ
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