A夜番の燈火《あかり》を表にあげる時には、毎朝々々夜明け前の軒行燈《のきあんどん》の下掃除をして置いて、その油布巾で戸障子の敷居などを拭いたものであつたともいふ。若年の頃からこの彼が耳にしたところでは、當家八幡屋、本家蜂屋の普請より三十七年目、すなはち寶暦八年に普請工事に着手し、翌年落成して家を移したといふことであるが、それから隱居は十九年も存生であつた。初代としての隱居が出發當時のことを言へば、田地を仕立てるにも、芝草用意もなりかねるところから、麥ですこしづゝ刈り作り、その頃本家蜂屋では隣村湯舟澤から來る人足の宿をしてゐたところから思ひ付いて、その馴染の人達から米三斗づゝ内證で借り受け、それを食米に宛てた。そして秋米で四斗づゝ返すほどに苦心した。これとても彼の祖母が口をきいて、隣村の人足達に特に頼んだから出來たことであつたといふ。
初代夫婦はこんなところから出發した。さうして旅籠屋ならびに農業に精出したところ、元來馬籠はひどい片田舍で、他に綺麗な家もなかつたため、新宅と言つて泊る人も多く、殊にその心で挨拶なぞにも意を用ゐたために、追々常得意の客もつき、小女も置き、その奉公人の給金も最初の三分を翌年は一兩にしてやれるほどになつた。そんなふうにして追々と勵むうちに、飯米も一升買のものは一俵にし、後には隣國の中津川から馬で呼ぶやうになり、そのうちに少しづゝ商賣などもして、次第に今日に至るやうになつたとは、彼の兩親夫婦が折々の咄であつたとか。
源十郎はこの覺書をつくるにつけても、自分等の暮し方、心の持ち方、町人としての身分、氣分、それから子供の育て方なぞを何くれとなく考へて見て、先代と今日とでは譬へも及ばないほどの相違であることをその子に言つて見せてゐる。彼にして見ると、第一朝夕の勤め方が大した相違である。すべては時に隨ふことではあるが、よその附合なぞも目立たないやう、その堪忍もして出來ないことはなささうなものであるに、當時は下着に郡内縞、又は時花小紋、上には縮などの羽織を重ね、袴、帶、腰の物までそれに順じ、さながら知行取りか乘物にでも乘りさうな人柄に見えるのを好い人體《にんてい》と心得、その身は猶更、親々までが元を忘れて、自然と先代からの奢りを増長することになる。これでは、三代目か四代目には登り詰めるか、下るか、いづれはどうしやうもない身分となるに相違ない。これは元を忘れるといふもの。得生の百姓達の身分には、あるまじきことである。そんな風に、元を忘れ、奢りに長じたら、おのづから上を恐れず、人を侮り、正しきものの味方から背き去る族《やから》も出て來るものである。彼はそのことを懇々と説いて、自分の子には折節は相集まつて互に過分な風俗を改めさせたいと言つてゐる。得生の元に歸れ、そのことを心に忘れずに、身分、氣分を定めたいものであると教へてゐる。亭主たる名跡でよそへ出掛けるにも、常の式日には綿布ばかりとするがいゝ。夏は布羽織、格別の節は糸縞。上着は紬までに定め置いて、それより上等の衣類などは用意に及ばないと考へよ。萬事内輪に勤める方が、何事につけても安氣に思はれる、ともその子に教へてゐる。
彼は後の覺書の終りに、次のやうな意味の言葉をも書いた。
『人々の得生、もとより天より下さるゝことであれば、親の自分が言ふやうに子に行へと求めるのではないけれども、先祖より讓られた家督、諸道具、その他すべての物――天よりの預り物と心得て、隨分大切に預り、入念に扱へば間違ひはない。今、日の本の一つの寶なる金銀、みだりにそれを我が物と心得、私用に費さうものなら、いつかは天道へ泄れ聞える時も來る。』
源十郎の覺書はその言葉で終つてゐる。
これを讀むと、源十郎はたゞ親から讓られた身代をよく護れといふやうな、ありふれた町人根性でのみこんな覺書をその子に殘した人とも思はれない。すくなくも彼は『天』といふことを考へた町人のやうだ。『得生の元に歸れ』とは、彼の覺書を貫く言葉である。心から出た汗のやうな言葉である。四人の子供を控へた初代源十郎夫婦の小歴史は、馬籠のやうな困窮な村にあつて激しい生活苦と鬪つた人達の歴史とも言へよう。彼のやうに少年時代からその兩親の苦鬪の跡を見て來て、だん/\この世の旅をし、いろ/\な人にも交つて見たものは、『日の本の一つの寶なる金銀、みだりにそれを我が物と心得、私用に費さうものなら、いつかは天道へ泄れ聞える時も來る』と言ふやうなところへ出て來てゐる。金銀、財産、諸道具、その他一切は、天よりの預りものと考へよ――この考へは、さうめづらしいことではないかも知れないが、彼のやうな町人の口からその言葉を聞くことはおもしろい。兎にもかくにも、彼はその年になつて見て、何物をもみだりに私すべきでないといふところに行き着いた。昔の町人の中には、かういふ人もゐたと考へて見ることも、またおもしろい。
笑
もし今の世に笑を持ち來す人があつて、詩歌小説であれ、繪畫彫刻であれ、演劇であれ、あるひは映畫であれ、何等かの形によくそれをあらはして見せて呉れるなら、どんなにわたしなぞはそれを見ることを樂しみにするだらう。
誰でも人間の笑顏を見たいと思はないものはない。もし又、その笑が冷たいものでもなくて、直ぐにも親しめるやうなものであつて呉れるなら、どんなに樂しからう。そのことをすこしこゝに書きつけて見る。
笑で思ひ出す。昔から美しい人のたとへにもよく引合に出される名高い支那の妃が、めつたに笑はなかつた人であるといふことは、やがて深窓に運命の激しさをかこつ東洋の婦人の多かつたことを語るものであらうか。後の世までその名を謳《うた》はるゝほど、みめかたち麗しく生れついた人達が、さうめつたに笑はなかつたといふことは面白い。さういふ人達が一度笑つたら、國を傾けるほど美しかつたといふことも面白い。
古い東洋文學の一面といふものは、さうした多情多恨の文字で滿たされてゐる。そこには、香魂とか、香骨とかの言葉が拾つても/\盡きないほどある。そして、どうかして得たいと思ふさういふ笑のためには、千金をなげうつことも惜しまなかつたやうな人や、高い地位勢力を利用したやうな人や、才智腕力の衆にすぐれた人や、又は情人なぞのかず/\の數奇な生涯が語つてある。閨《ねや》、衾《しとね》から、枕の類にまで事寄せ、あるひは戀とし、あるひは哀傷として、詩にも作られ、歌にも詠まれ、文章にも綴られて來たのは、さういふ婦人達がこの世に持ち來した笑の美しさに就いてである。
しかし、あはれの深さは、薄命な婦人達の姿にのみかぎらない。よく見れば、どんな人の姿でもあはれの深くないものはない。わたしたちの眼の前を通り過ぎる人でも、わたしたちの直ぐ隣にゐる人でも。
どうしてこんなことを書きつけて見るかといふに、昭和も八年の春を迎へた今日、これを明治の初から數へて見るなら、すでに六十六年目にもなるが、だん/\わたしなぞは笑へなくなつたやうな氣がするからだ。周圍を見るに、どうやらわたしばかりでもなささうだ。これは明治生れのわたしなぞが追々と年老いて行くためばかりとも思はれない。この世の嬉しいや悲しいを一通り通り越して、わたしたちの笑が冷たくなつたためかといふに、さうばかりとも思はれない。
些細なことがわたしたちを慰める、何故かなら些細なことがわたしたちを傷ませるからとやら。さういふわたしなぞも、些細なことに笑へたものだ。信州の山の上に七年の月日を送つた頃、長野でのクリスマスの晩に招かれて、燈火の泄れる教會堂へと案内される途中に、年若な牧師夫人が、二度も三度も雪に滑つて轉ぶ音を聞いた時。ずつと以前に仙臺への旅をして荒濱の方で鳴る海の音を下宿の窓に聞きつけた頃、その下宿の田舍娘から自分のアスの太いことを仙臺訛で笑はれて見ると、それが自分の長い放浪の結果であつたと初めて氣がついた時。ちよつと思ひ出して見たばかりでも、實に些細なことに笑ふことの出來た過去の自分が胸に浮んで來る。そして周圍にあつた友人等と同じやうに、自分等の性情を伸ばして行くことが出來たやうな氣がする。
西洋の人に言はせると、一體に東洋人は笑はない、だから氣心が知りにくいといふ話を聞いたこともある。併しわたしたちの先祖からして、決して笑を解さない人達ではない。頬骨の高く鼻の低い『おかめ』の面の福々しいものから、農業時代の豐饒を祝福するかのやうな『翁』の面の氣高く老いさびたものにまで、古人の笑が殘つてゐるばかりでなく、おそらく外國には類の少なからうと思はれる笑をあらはした神像までわたしたちの國にはある。あの大國主、事代主の二神が國讓りの難局に處せられた遠い昔を想ひ見ると、今日の所謂非常時で、なか/\笑へる場合でもないのだ。それでも退いて民に稼穡《かしよく》の道を教へ、父は農業の祖神となり、子は商業と漁業との祖神となつたと言はれる神達が、どんな笑をこの世に持ち來したかは、夷《えびす》大黒として邊鄙な片田舍の神棚にも祀つてある一對の彫刻にもそれがあらはれてゐる。あの神達の笑はあまりに古くて、よく分らないが、後世の慾の深い人間が譯もなしに祭り上げるやうなものではなくて、思ひの外な深い笑であつたかも知れない。
そんな遠い昔のことはしばらく措くとして、もつと近いところはどうだらう。どうして、わたしたちの先祖が笑を解さないどころか、猿樂から狂言となり、狂言から芝居となり、近代へと降つて來れば來るほど、古人の戲れた姿は殆んどわたしたちの應接にいとまがないくらゐだ。
一例を言へば『暫』だ。舞臺の上の關白は對抗する力のために、見事にその荒膽《あらぎも》を取りひしがれる。そこには江戸人の高い笑がある。又、一例を言へば三千歳《みちとせ》の芝居だ。舞臺の上の武士はその情婦から嫌はれ、損な役※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りを勤めた上で、すご/\とその場を引きさがらなければならない。そこにも作者の笑が隱れてゐる。
ある。ある。徳川中期の草雙紙、黄表紙、それから洒落本の類をあけて見たものは、當時の戲作者《げさくしや》が度はづれた笑に一驚するであらうと思はれるほど多くある。故北村透谷なぞはあの通りの人だから、それを徳川時代の平民的虚無思想といふことに結びつけて考へたくらゐだ。八笑人といふやうな、まるで笑の團隊のやうな人達もあれば、彌次郎兵衞、喜多八のやうに行く先に笑を振り撒く二人組の旅行者もある。
しかし、最早わたしたちは、あの東海道や木曾街道の膝栗毛なぞをあけて見ても、昔の人のやうには笑へなくなつた。その滑稽がそれほど滑稽とも感じられなくなつた。本馬何文、輕尻《からじり》何文、人足何文と言つた昔に、道中記をふところにしながら宿場から宿場へとかゝつた頃の人と、今日のわたしたちとは違ふからだ。これは止むを得ないことだとしても、さういふわたしなぞが亡くなつた友人のまだ達者でゐた頃のやうにすら笑へなくなつたのには驚く。世界の地圖を變へ、民族の興廢を變へたばかりでなく、二十世紀の舞臺はあれからまさしく一轉したやうな、大正三年より數年にも亙る世界大戰の影響といふものは、こんなにわたしたちを變へたであらうか。この節、朝に晩に吾家へ配達して來る新聞紙を開いて見ても、殆んどわたしはその中に笑といふものを見出さない。たまに見つけるものはあつても、それは刺すやうに痛い時事の漫畫か、さもなければこの世界の苦の中に震へながら立ち盡してゐるやうな人々のカリカチュウル(戲畫)だ。こんなことで、どうしてわたしたちは自分等を延ばして行かれよう。
好い笑は、暖かい冬の陽ざしのやうなものだ。誰でも親しめる。廣いこの世の中には、どうして見ても駄目だといふこともある。しかしそれを駄目だとしてしまはないで、どうかして温めて見たいと思ふのが、わたしたちの自然な願ひではないだらうか。
ことしの正月は、親戚の年寄の御相伴で、市川團十郎追善興行の二度目の催しを舞臺の上に眺めて來た。噂のあつた古い歌舞伎の『鳴神《なるかみ》』をも初めて見物して來た。ちやうど幕合の廊
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