るまい。背に雨具、筆、墨のたぐひ、あるひは夜の防ぎにもと紙布、ゆかたの類までも用意して百里二百里の道を踏んだといふ頃にわたしたちの心を馳せるとしたら、そして初しぐれの來る季節を想像し、山茶花なぞの咲く宿々を想像するとしたら、旅人と自分の名を呼ばれようと言つた昔の人の姿がおのづとそこに浮んで來る。
朝を思ひ、又夕を思ふべし、とか。昔の人に取つてこそ、旅も修行ではあつたらう。前途百里の思ひに胸が塞がると言ひ、日々の道中に雨風を厭ふと言ひ、旅は九日路のものなら十日かゝつて行けと言ふほどにして、思はず荒く踏み立てる足まで大切にするやうな昔の人の心づかひは、今日旅するものの知らないことである。思へばわたしたちの踏む道は變つて來た。多くの人に取つて、旅は最早修行でもない。電車、自動車は一ト息にわたしたちを終點地へと運んで行く。今のわたしたちには、雨具を背にする必要もない。笠を日に傾け、夜の防ぎとなるものを肩に掛けるやうな必要もない。わたしたちはひたすら前進する力の速さをたよりとして、目的とするところへ到着することをのみ考へるやうになつた。
今のわたしたちの周圍には、動搖のうちに靜かに立つものがないでもない。波の上にある舵手、海岸にある燈臺守、鐵道の側にある線路番人、町にある交通巡査なぞがそれだ。これらの人達の信號や相圖を必要とするほどに、わたしたちの旅は急がしく、めまぐるしくなつて來た。わたしたちは必要に應じて、實に瞬間に物を見定めたり、判斷したり、決定したりしなければならない。
こんなにわたしたちの生活は變りつゝある。わたしたちが現にこの世の旅から學ぶものは、これを過去の人達に比べたら、何といふ大きな相違だらう。
金錢は重要な交通機關ではなからうか。わたしは金錢の本質をさう考へるやうになつた。言語もまた重要な交通機關ではなからうか。わたしは言語の本質をもさう考へるやうになつた。交通の持ち來す變革がこんなことをわたしに教へた。
町人蜂谷源十郎の覺書
いつぞや郷里の方へ歸つた折に、八幡屋といふ家に殘つた古い町人の覺書を見つけた。今の八幡屋の當主は村醫者であるが、その先祖は通り名の蜂谷源十郎で知られた地方の町人であつた。わたしが見つけた覺書は、その二代目蜂谷源十郎の殘したものである。そのことをすこしこゝに書きつけて見る。
わたしの郷里の方のことで言つて見ても、純百姓の家に殘つてゐる古い記録はあまり見當らない。彼等にそんな暇がなかつたためかと言へば、さうばかりとは思はれない。農閑期といふものもある。彼等に文字がなかつたためかと言へば、これまた、さうばかりとは思はれない。彼等の中には百姓總代なり組頭なりとして、隨分宿村の相談にあづかり、相應に文字を解する人はゐた筈である。こんなに百姓が書いたものを殘さないといふは、全く彼等のたづさはる仕事の性質によることであらう。多くの百姓は僅かに古い小遣帳ぐらゐを殘し、その長い苦鬪の歴史をも、土に親しんで見た多年の經驗をも、或は老後の思ひ出をも、あまり筆にはしなかつたもののやうである。
そこへ行くと、町人の中には隨分筆まめな人もある。わたしの郷里も今では全くの農村であるが、以前は東西交通の要路とも言ふべき街道筋に當つてゐたから、その驛路時代に三十歳の頃から七十二歳の晩年まで、四十年間殆んど一日も缺かさずにと言つていゝくらゐの日記を殘した町人もある。これは百姓と町人との生活の相違によることは勿論であるが、一つには彼等町人が帳場格子の前に坐り、帳面をくりひろげ、硯箱を引き寄せ、自然と筆に親しむ機會も多かつたところから來てゐよう。今から百四十餘年ほど前に、蜂谷源十郎の殘した覺書も、やはりさうした町人の手に成つたものの一つだ。
もとより、これは一町人の覺書に過ぎない。然し源十郎がその子に宛てたもので、他人に見せるために書いたやうな性質のものではない。それだけ本當のことも出てゐて、徳川時代に於ける町人が私生活の奧も窺へるかと思ふ。半紙二つ折りの横綴の古帳に、事細かく、當時流行つた御家流の書體で達者に書きしるしてある。天保三年、源十郎五十歳の頃の覺書である。
源十郎は先づその子に宛、先代の隱居のことを語つてゐる。八幡屋の普請をはじめたのは、その年から數へて二十五年前、すなはち寶暦七年のことで、當時隱居は六十五歳、二代目源十郎としての彼が二十五歳の時であつたと言ひ、それから土藏、米倉、小屋、その他の建物を造るためには五六年の間かゝつたが、それらを成就するまでの隱居の辛勞は日々しばらくも彼には忘れられないと語つて見せてある。
この源十郎に言はせると、彼は兄弟四人の末子に生れた。もと/\馬籠《まごめ》(わたしの郷里)なぞは至つてひどいところで、古から困窮な宿であつたから、有徳者と言へるほどの者なぞ一向になく、彼が子供の時分に一分か二分の金を借りるにも隣宿の妻籠《つまご》か美濃の中津川邊でするくらゐのところで、中津川備前屋の親仁《おやぢ》伊左衞門なぞは師走《しはす》の月にでもなると馬籠下町の紋九郎方に來て十日あまりも滯在し、町中へ小貸しなどして、それで漸く宿内のものが年の暮の始末をしたやうなところであつた。隱居の咄《はなし》にはよくそのことが出た。さういふ土地柄で隱居は四人も子供があつたから、心勞も一通りでなく、それに馬籠は街道筋といひながら町並の家居も惡いところだから、どうかして家を建て直したら旅人の泊り客も多からうとの考へから、その經營に取りかゝつたが、さて、その建直しを成就しようとなると古金で六十六兩の借金が出來た。これは大借ではあるが、まだその頃は隱居も四十になるやならずのことであり、なにとぞして精出し、神佛に非禮な行ひもしなかつたら、志の成し遂げられないこともあるまいと考へ、子供をも路頭には立てまいとの念願から、更に隱居の奮發となつた。言つて見れば、山家での朝の草刈りも、青草を見かける頃から、九月、十月の霜をつかむまで、毎朝二度づゝは刈り、晝は人並に農業を勤め、晩は泊り客を第一にした。その間には、すこしづゝ米商ひもして、殊に八幡屋は蜂屋から分れた家ではあつたが、その元をたゞせば一旦打ち絶えた宿役人の家柄ででもあつたと見えて、年寄役をも勤めた。そんなところから隱居は出發して、漸く彼源十郎が少年と成つた頃にはすこしは勝手も※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り、ます/\隱居の精出したことは彼もすこしは見覺えてゐると言つてある。
こんな境涯の中で、四人目の彼への心當てなぞは思ひもよらないことであつた。彼はそれを言つて見せて、それでも兄弟は追々と一人づゝ片付き、末子の彼までが町中に家を持つ迄の隱居の辛苦は、なか/\言葉にも筆にも盡しがたいものがあつたといふ。馬籠なぞでは、代々總領は親の仕來つたやうに、百姓は百姓、駕籠かきは駕籠かき、それも長男と生れたもののみが親の仕事を繼げるのであつて、次男からは十三四歳の頃より奉公し、二十四五歳にもなつて己が引き合ふ女房も出來る頃には、自前で漸く賃取り仕事にもありつくやうなものであるが、末には我が生地にも居られないで、後に雲助となつたものもこれ迄には數多くある。のみならず、親の心からは、相續の子よりも反つてさうした次男三男の方に一段の不便《ふびん》も増さう。それを思へば、一生親の胸を傷め、かた/″\不幸なものはその數を知らない。たとへ實體《じつてい》に勤めたところで、彼の如く末子に生れたものは、成身しても七里役(飛脚)か、馬追、駕籠かきと極まつた身分の時代にあつて、兎にもかくにも彼は例外の仕合せを兩親の側に見出した。しばらくもその冥加《みやうが》を彼が忘れたら、生れ得たまゝの馬追か駕籠かきで生涯を終るか、それも恥づかしくなれば遠國へでも走り、非人乞食の仲間入りより外なかつたであらう。そこまで源十郎は覺書に書いて來て、更に『その方ども』といふ昔風な言葉でその子に呼びかけ、お前達はその末子の自分の子供で、言はゞ末の末のものである。東西を知る頃より草刈奉公にも遣はすべき筈のところ、隱居の御蔭で、われらが身分にも過ぎた成し下され方といふものである。冥加のほども恐ろしい。自分としてはしばらくもそのことを忘れないが、元來お前達は得生もすくなしのくせに、口悧巧で人に出過ぎ、殊に馬籠は人少なのところゆゑ、われら如きのものまでが宿方の役人を勤めるところから――尤も、自分としては、日々わが身の『俗生』を顧みはするものゝ、自然と人の敬ふにつけて自分等の本を忘れ、兎角人目にあまることは、漸くこの五十の歳に及んでそれを知つたとも言つてある。
源十郎は又、すでに他へ縁付いてゐる娘のことをも、この覺書に書き添へることを忘れなかつた。
『その方どもは、わけて女子兄弟とては一人のことにて、殊に母早世ゆゑ、成身に隨ひ追々便りなからんと、われらとても一入《ひとしほ》不便にぞんじ申し候。縁付き候ても子持ちのことにこれあり、且は年頃にても女子は親の家へ遊びに參るを樂みにいたし候よし世間にてほゞ承はり候へども、母なきところにては是等のこと一人の娘不便の事に候。なにとぞ、兄は兩親に成り替り、隨分目をかけ呉れ候やうにとぞんじたてまつり候。たとへ、一段不便をかけ候ても、兄は姉程には心安くなきものに候へば、これらのところをも考へ、たゞ何事も神佛ならびに先祖の御蔭によることを思ひ、しばらくも冥加を忘れず、御禮申し、家業第一に相勤め申すべく候。』
この覺書の末には、折ふしは兄弟うち寄つて慰みにこれを一覽するがいゝといふやうな、優しい言葉も殘してある。
源十郎がその子に殘さうと思ひ立つた覺書は長いこと心掛けたものらしく、明和九年、彼が三十九歳の頃に、すでにその下書をつくりはじめ、五十歳の頃になつて更に筆を加へた部分もあるらしい。それほど彼は初代八幡屋の父が出發當時のことを忘れさうな子孫の末を案じたらしく思はれる。
それから三年後、天明六年の六月十二日の日附で、彼は今一通の別な覺書をつくつた。『御隱居御存生の中の御咄《おはなし》あらまし覺書』として、やはり前のものと同じやうな半紙二つ折りの横とぢの古帳であるが、それには、
『右の日、子供は酒の一番火入、われら見世番にて隙《ひま》に候間、覺書いたし候――源十郎五十三歳記す』
とある。これを見ても、二代目としての彼は父の隱居の仕事を幾倍かにひろげ、五十三歳の頃にはすでにかなり大きな造り酒屋に坐つて、その子に酒の一番火入でもさせ、越しかた、行く末を思ひながら、後の覺書をつくらうとするやうな人であつたらうと思はれる。
『八十年來の浮世の思ひ出、すべて思ひ出し/\、あらまし書きつく。』
これは源十郎が後の覺書のはじに書き添へた言葉だ。五十餘歳にして、八十年來の浮世の思ひ出とは異樣にも聞えるが、おそらく彼は八十歳の老齡までも生きてゐた人で、後から/\思ひ出し/\、書き足した部分もあつたのであらう。前後二通の覺書は、彼が長い年月をかけて、その子のために用意して置いて行つたものと見ていゝ。殊に、後の覺書は前のものの不足を補はうとして、多少重複したところがなくもないが、一層こまやかに、心を籠めて書いてある。
もう一度、源十郎のやうな町人をして、彼等自身をこゝに語らせたい。彼に言はせると、自分等は代々の百姓で、先代より困窮のよしにうけたまはつてゐるが、兩親が追々の骨折りで當時安樂に暮すやうになつた。これは、まつたく先祖と兩親との御蔭である。自分が若年の頃から朝晩の咄にうけたまはつたところによると、隱居は十八歳で身上《しんしやう》を受け取り、蜂谷の名跡《みやうせき》をつぎ、馬籠宿の年寄役を勤め、二十八九の頃に八幡屋の普請をしたが、困窮の際であつたから農業にも精出してやつた。母人はまた母人で、この隱居を助けて、夜通し普請の折の木の片を燈《とぼ》し、それを油火に替へたとやら。その頃、母が片手間の商賣には豆腐屋をして、夜通し石臼をひき、その間には三四人の子供をひかへての辛勞から、夜一夜|安氣《あんき》に眠つたこともなかつたといふ。新宅のことで
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