の節はごく日の短いさかりでも、とき/″\寢たりなぞする。追々|箍《たが》のゆるむのを忘れて横着に構へるといふわけでもないが、先づ一仕事濟んだといつては横になり、こんなにしてはゐられないといつては横になる。どうかすると、枕もとに古い煙草盆を引きよせ、好きな煙草を一服やつて、さて眠られても眠られなくても、靜かに横になるのを樂しむこともある。
小泉八雲といふ先生は、この人も寢ることにかけてはわれらの友達仲間であつたと見え、いつぞや山陰地方へ旅し先生の遺跡を訪ねた折に、その故家に先生遺愛の古い枕を見出した。黒い漆を塗つた小さな木枕であつた。そのところ/″\漆の剥げるまで生前愛用されたらしいもので、晝寢の夢のあとはあり/\と殘つてゐた。異邦人ながらに先生が見つけたこの國の愛はそんな古風な枕の類にまで及んでゐたかとめづらしく思ひ、どんな寢心地のものか自分も一つ試みるつもりで、松江を去る時にその出雲土産を買ひ求めて來た。歸京後にそれを取り出して、ときどき試用して見たが、いかにいつても枕としては低く、木の質も堅く、新しい手拭など折り疊んでその上にあてがひ横になつて見ても、どうも自分には適しなかつたことを覺えてゐる。その後、支那出來の枕を一つ手に入れた。それはまた支那人の部屋にあつてこそよく調和するやうな赤と黄の色に塗つたもので、自分の部屋などには不似合な調度ではあつたが、支那風な好みの形にも雅致があり、寢心地も惡くない。ある年の夏、戸棚から取出して見ると、枕の隅々を鼠にかじられあまり好い心地《こゝろもち》はしなかつたので、それを涼しさうな和紙に貼りかへたこともある。去年の夏もそれを取り出して、汚れた紙の上に更にある人から貰ひ受けた木版刷の模樣のついた紙を貼りつけて見た。それは光悦が意匠を寫したものとかで、からくれなゐに水くゝるとはの古歌の意があらはしてあり、流れに浮くもみぢの模樣なぞはすこしなまめかしいくらゐのものが出來上つた。晝寢の友とあれば、そんなものでも笑つて濟ませる。
なにかと心せはしく暮してゐる間にも、半日の閑を見つけ、なすべき仕事からも離れて、疲れた身を休める晝寢は樂しい。何氣なく人のいひ捨てた言葉、あるひは人の書きつけたものにふと見つけたことなぞを枕の上に思ひ出すのも、さういふ時だ。料理のことに明るい人の思ひ出として、ある雜誌の中で讀んだ若狹《わかさ》の魚商人の話なぞもその一つだ。京都も今とは違つて、昔は魚に不自由したところであつたさうだが、若狹の方から商人のかついで來る魚にかぎつて、活き/\とした味を失はないのはどういふ譯かと、料理人仲間の噂に上つたとのこと。だん/\樣子をきいて見ると、若狹の商人が北陸の海邊から山越しに京都まで運んで來る魚荷の中には、かならず笹の葉が入れてあつて、そのために魚の味の落ちないことが判つたといふ。さすがに一つの道に精しい人達はおもしろいところへ眼をつけるものだと思つて、あの笹の葉の話は妙に忘れがたい。
深く眠るまでもない晝寢には、手近にある古い字書なぞを引きよせて枕のかはりとしても、それでも事は足りるやうなものだ。しかし横になる時の姿勢だけは、なるべく安らかにありたい。古代のギリシャ人は片足を長く延ばし、片足をすこし折りまげた寢像の彫刻を造つて、それで眠りを表現した。よく生きることを知つてゐた古代のギリシャ人は、よく眠ることをも心得たゐたと見える。
かつてフランスの旅にあつたころ、パリの郊外にペエル・ラセエズの墓地を訪ねたことがある。そこはフランスに名のある歴史的な人物やパリで客死したといふイギリスの詩人オスカア・ワイルドの墓などのあるところで、墓地としてもかなり廣い。岡の地勢に添うた樹木の多い區域が行く先に展けてゐるやうなところだつた。深く分け入るうちに古めかしく物錆びた一宇の堂の前へ出た。男と女の寢像がその堂のうちに靜かに置いてあつた。アベラアルとエロイズの墓だ。男は中世紀の哲學者であり神學者でありソルボンヌの先生であつたといはれるし、女は學問のある尼僧であつたといはれる。古く黒ずんだ堂の横手には、この人達は終生變ることのない精神的な愛情をかはしたといふことなぞが立派に書き掲げてあり、堂を取りまく鐵柵の中には何の花とも知らない草花があはれげに咲き亂れてゐたことを覺えてゐる。あれも晝寢の仲間かと思ひ出して見ると、あんなに天地に俯仰して恥ぢないやうな堂々とした寢像としてあらはされてゐるのも、どんなものかと思ふ。『戀ゆゑにそんな悲哀と苦惱とを得た』とフランスの詩人フランソア・※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ロンには歌はれ、死後には翼を比《なら》べた形を彫刻にまで造られて、それを戀とも哀傷ともされ、たゞ/\二人にあやかりたいやうな男や女の語り草となる。まことの人間の姿は尋ねるよしもない。いぢらしい人達だ。
年若いころのことであつた。わたしはある娘を知つてゐた。この娘まことに健康な人で、夏の晩なぞよく大の字なりに熟睡しては便所の方へ行くわたしの通り路を塞いでゐた。仕方なしに娘の上をまたいで通り過ぎたものだが、その人は何も知らなかつたことを覺えてゐる。こんなことはさう咎めるに當らない。娘のころに枕をはづして眠るぐらゐは有り勝ちなことで、それが反つて好い健康の證據ともなる。だん/\年をとるやうになれば、誰しも若いうちのやうなことはなくなつて來る。さういふ中でも、寢姿の好い人こそ、女の中の女と考へられなくもない。
戸も出ずに籠り暮してゐてしと/\降る雨の音なぞをきく時の晝寢は侘しく、語るにも友もない時の晝寢は寂しく、われとわが身をいたはる時の晝寢は甘い。寢るよりほかに分別のないやうなこともあつて、さういふ時の晝寢ほどまた苦いものもない。
[#天から4字下げ]酒飮めばいとゞ寢られぬ夜の雪
こんな句を殘した古人もあるが、さういふ眠りがたい夜にかぎつて自分は呼び茶をする。するとます/\寢られなくなる。このわたしが樂しみの一つは、さういふ翌日になつて家にある風呂の下なぞを焚きつけ、そこに一切を忘れることだ。心の落ちつかない日には、わたしは自分でくべた薪のぱち/\燃える音をきゝながら、狹い風呂場のかまどの前に時を送ることもすくなくない。
ある人へ
ある人への返事に。
『御手紙拜見しました。力はどうしたら得られるかとの御尋ねのやうですが、あのゲエテやトルストイのやうな人達でも先づ自分の持つものを粗末にしないところから出發したやうです。そして長い生涯の間には他と交換したものでもそれを自分のものにすることが出來て行つたやうです。君は明治以來のこの國の青年の弱味が歴史精神に缺けてゐたことだとお考へにはなりませんか。故岡倉覺三のごときはそれを持つてゐた稀な人でせう。只今白木屋に開催中の古書展覽會へ行けば「天心全集」三卷は手にも入りませうから、あゝいふものを探されて、熟讀三思せらるゝことを君にお勸めしたいと思ひます。』
雪の障子
この節すこし讀書する暇があつて、いろ/\な好い書物から毎日のやうに新しいことを學ぶ。町々はまだ春先の殘雪のために埋められ、とき/″\恐ろしげな地響きを立てゝ屋根から崩れ落ちる雪の音もするが、この雪に濡れて反つて光を増す槲《かしは》の葉などの輝くさまは眼もさめるばかり。明るい障子に近くゐて心靜かに讀んで見る書物から受けるさま/″\な感銘の中には、讀者諸君に分けたいと思ふやうなこともすくなくない。その一つをこゝに取り出して見る。
かねてわたしは茅野蕭々氏の著したゲエテ研究を讀みたいと思ひながら、その折もなくてゐたが、先頃町の本屋で黄色い表紙の裝幀も好ましい學生版を買ひ求め、同時に栗原佑氏の譯にかゝるブランデスがゲエテ研究をも求めて來て、この二つを讀み比べて見ることからゲエテのやうな人の生涯をもつとよく考へたいと思ひ、先ず茅野氏の著書から讀みはじめた。同氏の筆はゲエテがその※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]イマア生活の初期の頃に好い影響を受けた幾多の先輩ばかりでなく、彼を啓發した幾多の婦人の方へも讀む者の心を連れて行く。そして同時代に、性格のある種々なすぐれた婦人を知ることの出來た人の幸福に就いて語つてある。その中に、ジャネッテ・ルイゼ・フォン・※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ルテレン夫人のやうな人に關する記事もある。この美しい、垢拔けのした、精神の籠つた、『極めて愛すべき』婦人から、ゲエテは世間智を學んだと言はれてゐるとある。『あらゆる藝術に天才があるならば、生活の藝術に於ける天才ともいふべきは彼女である』と言はれてゐるともある。
たゞこれだけのことなら、この※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ルテレン夫人がゲエテ作品中にも重きを成す『※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ルヘルム・マイステル』の中の伯爵夫人のモデルであるといふことを承知するぐらゐにとゞめて、わたしも讀み過したであらう。その後の方でわたしは彼女に關する次のやうな記事にぶつかつた。それは千七百八十二年の三月頃にゲエテが親しいフォン・シュタイン夫人宛に書き送つたものの中に、この※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ルテレン夫人に就いて言つた言葉として、
『この小さい人間は私を啓發した。』
と言ひ、彼女は『世間を取扱ふ』ことを心得てゐると言ひ、瞬間のうちに數千粒に分れしかもまた集まつて一丸となる水銀のやうだとも言つてゐる。
この水銀の譬はいかにも美しく形容してあると思ふ。そしてあらゆる同時代の先輩からばかりでなく、また婦人の友達からも學ばうとしたことにかけては、あたかも花の蕊《しべ》から蕊へと深く分け入つて蜜を探した蜂のやうな、あのゲエテの心が求めたものは、實にこの『水銀』であつたらうかと想像される。言つて見れば、それはさかんな綜合力だ。ひとり※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ルテレン夫人が心得てゐたやうな生活の藝術にかぎらず、あらゆる創造的な人間から生れて來るものは、その『水銀』の力をヌキにしては考へられない――小は個人の營みから、大は同胞全體の上に働きかけることに至るまで。
紫の一もと
舊南部領に紫根染の殘つてゐることを傳へ聞き、それを心あてに染色の古法をたづねるため、今一つには紫の一もとなりとも採集したいとの願ひから、遠く南部の地を踏み、花輪の山奧なる湯瀬といふところまで旅して歸つて來た人は、赤坂田町に住む草木屋の主人である。
同君の土産話によれば、わが國固有の染料たりし紫草の根も、外國より輸入する化學染料の流行に壓せられて、今は顧るものもなき状態にあるといふ。その栽培も、今日では全くそれを行ふものを聞かないとのことである。僅かに本邦各地に殘存する野生のものを採集し得るにとゞまるとのことでもある。紫の一もとたりともそれを育てるものがなければ、荒蕪に歸る。わたしたちと自然との微妙な關係は常にかうしたものかと思ふ。
多くの場合に、わたしたちは自然から與へらるゝことばかりを知つて、自然に與へることを知らない。母なる大きな自然を養はうとすることが、やがてわたしたちの生活をまことに豐富にする所以ではあるまいか。
人工の翼
けふも町の空に發動機の爆音を聽いた。
二三の航空機が乾いた寒空を衝いて飯倉の町の上を横ぎつて行つた。いつぞや遠く獨逸の方から訪れて來た一臺のツェッペリンが、この町の空にあらはれた時は、銀色の機體に黒く記された文字があざやかに讀まれたほどで、やがて光の海を渡る船のやうに遠ざかつて行つたが、あの鋭く美しいものの姿はまだわたしたちの記憶に新しい。今はグライダアのやうなものまで出來て、あの滑翔機の曳航飛行が各地に行はれるだらうといふ噂なぞも、さうめづらしいことではなくなつた。過去數世紀の間、その往來に數週間もしくは數ヶ月を費した太平洋上の交通ですら、僅かに數日間で相接觸することの出來る定期航空路の開設を見るのも最早そんなに遠いことではなからうと言はれ、やがては旅客、商品、および郵便物があたかも田舍から
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