曾山の背伐りといふ言葉は、序の章に出て來るし、その他の場處にも書いてあるので、ある人から背伐りの嚴禁を犯すとはどういふ意味かと、その解釋を求められたこともあつた。伐採を禁じられてあつた檜木なぞの一部を、立木のまゝ削ぎ取り、樹木の皮だけをそつくりあてがつて置いて、山中見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りの折の役人の眼をかすめるのをいふ。

 街道筋の人がよく使用する店座敷といふ言葉のことは、草稿の附記の中にも書いて置いたと覺えてゐる。店座敷とは表座敷の意。店といふ言葉は商家にのみ用ゐられたのではなく、單に表といふ意味で、一般の家庭にも用ゐられた時代があつたと考へていゝやうだ。あの多くの旅客を相手にして朝夕を送つた人達が街道に接した表座敷を店座敷と呼び、問屋場につゞく會所の内の宿役人の詰所にも、本陣の屋根の下にも、その名のあつたことは、いかにも往時の宿場にふさはしい氣がする。

 日本評論社の主催でわたしの『夜明け前』についての座談會があつた晩、わたしは古い記録なぞをしらべてゐる中にふと見つけた言葉のことを言ひ出し、當時の流行語として昔の人が特に使つたと思はれるやうな言葉のあることを言ひ、ちよつと今日使はないやうな場合にもさういふ言葉を使つたらうと思ふと言つた。その一例として、第一部第二章の牛方事件の中には年寄役金兵衞の言葉として、『隨分一札を入れさせ』とあるのをそこへ持ち出した。あゝいふ時の隨分などといふ言葉は、あれは當時流行の言葉ではなかつたかとわたしが言つて見た。すると座には宇野浩二君や室生犀星君などがあつて、隨分といふことは今でも隨分言つてをるといふ話が出た。しかしわたしの言はうとした意味は兩君の隨分とはすこし違ふ。その時、金兵衞の隨分とは屹度《きつと》の意味だと言ひ出したのは山崎斌君であり、出來るだけの意味に用ゐたのだと言ひ出したのが幸田成友君であつた。『隨分一札を入れさせ』なぞとは、いかにも面白く昔の人が使つてゐたやうに思はれ、言葉に籠る陰影には言ひ盡せないものが顯れてゐる。

 後日の思ひ出に、蘭醫ケンペルのことをもこゝにすこし書きつけて置きたい。ケンペルに關したことは、わたしの稿では第二部のはじめの方に出してあるが、元祿年代に渡來したあの蘭醫こそ、長崎出島の和蘭屋敷内に歐羅巴風の植物園を開いた最初の人であるといふ。おそらく萬里の波濤を越えて持ち來した和蘭藥草の種子が初めてこの國の土に蒔かれもし又根づきもしたのも、ケンペルの開拓した植物園であつたらう。往時の長崎奉行とも言ひたい風俗の士が從者と共に異人の間にまじつてその靜かな園内を逍遙するさまを描いたものは、銅版畫としても殘つてゐる。蘭醫の大家として名高いシイボルトがずつと後になつて長崎に渡來し、この先着の同國人が殘した植物園を見た時は餘程の感慨を覺えたものらしい。シイボルトがケンペルを記念するために園内に建てた碑は今は長崎の公園の方に移されてあるといふ。わたしはその碑文の譯を見たこともあるが、今だにあれは忘れがたい言葉としてわたしの胸に殘つてゐる。どういふ人の筆になつたものか知らないが、その譯も好い。
[#天から2字下げ]『緑そひ、咲きいで、そが植ゑたる主をしのびては、めでたき花の鬘《かつら》をなしつゝあるを。』

 今度の仕事が第二部第二章までを中央公論誌上に發表した頃、匿名の人よりわたしは葉書を貰つた。それには、『貴作「夜明け前」を雜誌の上で缺かさず愛讀してゐるものです。「中央公論」七月號のも拜讀いたしました。その中で、三十五頁の十三行目に、「大阪平野の景色」云々といふところは河内平野ではないかと思ひます。或ひは河内平野の方がよいかと思ひます。あの邊の淀川は河内(現在北河内郡)を流れて居りますから。大變失禮ですが、一寸氣がつきましたので御參考に申し上げる次第です。』としてあつた。この注意はありがたいと思つて、次囘を發表する時に訂正を附記し、併せてその厚意をも謝して置いたが、匿名の人の誰であるかは分らなかつた。過ぐる日、芝三縁亭の會で宇野浩二君と一緒になつて見ると、あの葉書を呉れた愛讀者とは君であつたとか。あんなに思ひがけなく、またうれしく思つたこともない。

 餘事ながら、第一部を通讀したしるしにと言つて、織田正信君を介してその愛藏する『慊堂遺文』二卷を贈られ、自分を勵まして呉れたY博士のやうな人もあつた。過ぐる七年の間、わたしは自作草稿の第一部を作るために三年を費し、第二部のためには四年を費したが、こんなに月日をかけたことが決して自慢にならない。むしろそれら一切を忘れたい。

[#ここから4字下げ]
めづらしき友とあひ見て語らへばくやしくも我は耳しひてあり
耳しひてあれども何かくやむべきあひ見るだにも難しと思へば
[#ここで字下げ終わり]
[#地から7字上げ]有明
 郷を去つて飄然西の方へ下つて行つた武林無想庵君が途中からの葉書便りを受け取つて見ると、同君は靜岡に蒲原さんを訪ねたと書いてよこして、同じ葉書に有明君の筆でこの歌二首かきつけてある。『めづらしき友』とは武林君のこと。あの『草わかば』、『春鳥集』、『有明集』の作者に、今日の不自由さが待つてゐようとは誰しも思ひがけないことで、耳|聾《し》ひた詩人からの便りを机の上に置き、しぐれがちな初冬の夜の空氣も身にしみる電燈のかげに、二首の歌を繰り返し讀んで見た時は思はず胸が迫つた。

 歐羅巴人の見地よりする古代印度の研究者として名高く、吾國から巴里に遊んだ學者達をはじめ多くの日本の留學生を愛した佛蘭西大學のシル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ン・レヰイ老教授のことは知る人は知る。あの佛蘭西の學者も近く故人となつたと聞く。
 レヰイ教授は、アインシュタインなぞと同じやうに猶太《ユダヤ》系統の人であつた。あの教授の家庭では他の佛蘭西人のそれと變つたこともないが、たゞ一年に一度、家族の人達と共に黒パンを食ふ日が定めてあつたとのことである。これは猶太民族が埃及《エジプト》を出た遠い昔を記念するための年中行事の一つとして、教授の家庭に行はれてゐたことであるとか。今は東京の天文臺に在勤する福見尚文君は長いこと巴里に遊學時代を送つた篤學の人で、レヰイ教授の家族とも親しかつたところから、わたしは同君を通してその話を聞いたことを覺えてゐる。ことしの冬、教授の訃《ふ》を耳にするにつけても、曾てわたしは巴里の植物園の近くに住む家族の人達から茶の會や食事なぞに招かれたことを思ひ出し、わたしが國から遠い旅の記念にもと用意して行つた茶、椿、銀杏、沈丁花なぞの日本産植物の種子を贈つたのも教授の許であつたことを思ひ出した。一年に一度の黒パンは何でもないことのやうだが、民族の長い歴史にかけてそれを記念するところに教授が心の奧もしのばれて、あの話は忘れがたい。

 異國の教授の上ばかりでなく、過ぐる七年の月日の間に亡くなつた老幼の舊知を數へて見ても驚かれるばかり。小山内薫君、岡野知十君、いづれも今は故人だ。根岸の岡崎幸之助君は舊姓池田と言つて、高橋の河岸の角に薪炭問屋を營んでゐた岡崎家を相續した人で、京橋數寄屋河岸の泰明小學校へ通つて來られた頃はわたしも共に机を並べた少年時代からの友達であるが、その人なつこい性質は年を取つても變りがなく、時にはこれは昔の岡崎と思へと言つて記念の置時計を持つて來て呉れたり、時には互にいそがしいからだでも一つどうかいふ日を見つけて湯河原あたりへ骨休めに同行したいものだと言ひ出したりして、ことしの蜜柑の黄色くなる頃こそはと、その約束までしてあつたのに、この舊い馴染も最早この世にはゐない人だ。不思議な縁故からつながれるやうになつた浦島堅吉老人、幼い加藤二郎さん、川越の老母、この人達もまた亡き數に入つてしまつた。殊に、川越の老母は東京生れの人であつたところから、自分の長い仕事が一ト切りになる頃を見計らつては、一年に四度づゝは必ず東京の町中の空氣を吸ひに、上京することを樂しみにし、『はい、今日は』とでも言ふべきところを、『はい、只今』などと言ふほどにしてわれらが家の格子戸をくゞり、昨年、一昨年、一昨々年の冬もわれらと一緒に年を越して、短くても二十日、どうかすると三十日も四十日も長く家に逗留したものであつた。この老母まことに話はおもしろく、茶と音曲と料理の道にも明るく、かず/\の美しい性質を具へてゐたことは稀に見るほどの老婦人で、自分が長い仕事を終るまでは是非達者でゐると言ひ/\して、ことしの六月の上京をも心待ちにしてゐたといふことであつたのに實に惜しいことをした。

 屋《いへ》は舊く、身もまた舊い。これは岡野知十君が遺稿の中に見つけた言葉であるが、このまゝ今日の自分の上にもあてはまる。二疊の玄關は茶の間への廊下續きに當るところで、路地からの風も吹き入り夏は涼しい。ことしの暑中にも午後からはそこを讀書の場處にして、日除《ひよけ》がはりに路地の片隅へ造りつけた朝顏棚の方へ行くことを慰みの一つにして來たが、いつの間にか枯れ/″\な蔓のみが疎らな竹の垣に殘るやうになつた。夏は深い日除になり、秋は黄葉の落ちるまでを味はせ、冬はまた物干場のかはりになるのも吾家の庭の片隅にある青桐だ。しかし、どうやら七年の重荷をおろすことの出來た自分にはこの舊い屋根の下もなつかしい。今は身も心も僅かに輕くなつたやうな氣がする。

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過去を探ることの容易でない一例として、この覺書の中にも書いてある木曾路の『水役』につき、自分の知り得たことをすこし記しつけて見る。木曾奈良井に住む徳利屋主人より遠藤工學士宛の手紙によれば、奈良井邊でいふ水役とは檜職人の役で、勞役はせず、金錢にて納め來つたものであるとのこと。同地水役の家は檜物手形を一戸分一兩一ヶ年に納金する株で、配役の一人分は三朱づゝ。されば一兩の株の外に當役の時は四朱を負擔せしものであるともいふ。このことは同地にある九十一歳の老人によつて判明したと徳利屋主人の手紙の中に書いてあつた。
水役が傳馬役以外の雜役を意味することは、その後、福井縣下味見の高島正氏といふ人から貰つた便りで一層判明するやうになつた。同氏は自ら六十六翁と書いて、次のやうに説明してよこして呉れた。
[#ここから3字下げ]
『水役は、老生の居村――農山村にては、人別帳後に一村を合計して、高持何軒、水役何軒と記しありて、高持に對する無高を意味し、誰々水役より高持になると記録に特記して身分の向上を慶びたり。現今の如き戸別割の賦課なく、藩主への税納を高に割賦せし時代の無高は村にても蔑視され、高持とは同座し得ず。最賤なる水酌役、即ち雜役に使はれ來りし語なるが如し。水役は一に雜家《ざふけ》――(雜役家の略か)と言ひ慣はし候。猶、序に申上げ候、慶長年代以來の所謂水帳とは※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]地帳、則ち高附帳の意ならんと存じ候。老生藏する慶長※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]地帳によるも、水帳とは建築の際に水平を※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]して最初に張る繩を水繩と稱するより來りしものの如し。右は水役の水とは同語なれども、意は大に異なり申し候。』
未知の讀者の厚意からわたしの疑問が解けたのはありがたい。それにしても、こんな風に過去を探つて行くとなると、一つの言葉の意味を知るだけでも容易でない。眞に考證の正確を期することは、わたしたちの手の屆かないところにある。知らないことは知らないなりにとゞめて、わたしたちの領分は別にあると考へていゝかと思ふ。
[#ここで字下げ終わり]

     晝寢

 苦さ、甘さ、寂しさ、侘しさ、あるひはまた樂しさ――晝寢の味もいろ/\である。花蓆《はなむしろ》の一枚に、汗をはじく枕でもあれば、それでことが足りて、涼しい風の吹き入るところに身を横にすることも出來る夏の晝寢も無雑作でいゝが、冬の日にはさうもいかない。われら年若いころには、日の長い暑中でもめつたに晝寢をするといふことはなかつたが、年をとるにつれて、その味を覺え、こ
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