分宿土屋氏の名主古帳、信州埴科郡新地村山崎氏の名主古帳、木曾福島宿公用記録、妻籠本陣の御年貢皆濟目録及び本陣日記、馬籠宿役人蜂谷源十郎のつけた八幡屋覺帳の類は、街道筋その他のことを知る上にそれ/″\好い參考になつた。古い記録といふものも讀みがたいものが多く、反古裏《ほごうら》に書込みなどしたのもあり、お家流の書體でしかも走り書の文字を辿つてゐるときなぞは、まつたく茫然としてしまふこともあつた。しかし、それらの記録を殘して置いて呉れた人達があつて、明治維新前後の民間の事情もどうやら今日に辿られるやうなものだ。そのあるものを讀むと、木曾谷を領してゐた尾州徳川家では寛政年代の昔に名古屋藩としての觸書を出して、谷中のものが所持する源敬公時代以來の古記録を徴集した事蹟のあることなぞを知る。わたしはこの作をするにつけて今の尾州徳川家の蓬左文庫に負ふことも多い。
大黒屋日記(年内諸事日記帳)の一節に曰く、
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『中のかや(馬籠宿一部落の小名)五兵衞參り、土産に玉子十一惠み下され、就いては伜貞助當年拙者方へ預け、手習、算術など教へ、手すきの節は酒つぎなりと致させ(大黒屋は造り酒屋なれば)、厄介ながら頼みたきよし申し候につき、至て兩爲メと相成り候やと存じ、引き請け申し候。尤も、日柄見合せ、遣はさるべきやう申し遣はし候。(文久三年一月十八日)
右につき、二十四日に、五兵衞伜同道にて參り、兩三年も世話を頼むとあり。赤飯、さかな、柿など土産あり。』
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これを見ると、大黒屋日記の筆者は手習ひ子なぞをも教へたと見える。當時のお家流をよく書き、狂歌狂句の一通りは心得てゐた町人と見えて、物の捉へ方や記述する筆づかひにもなか/\性格が面白く出てゐる。
この日記の筆者は大脇信興といひ、通稱を兵右衞門といふ。わたしの郷里の人で、今の大黒屋の當主大脇文平君の曾祖父に當る。この隱居は以前のわたしの家の上隣りに住み、郷里馬籠の宿場時代には宿役人の年寄役及び問屋後見として、わたしの祖父とは日夕相往來した間柄であつたらしい。この隱居の一番日記は文政九年、同じく十年、十一年の三ヶ年間の日記帳より成るもので、それをつけはじめたのは三十歳の頃かと思はれる。さういふ日記帳が二十七番までも文平君の家に仕舞つてあつた。最初のうちはわたしもあの隱居が二十七番の日記を殘したこととのみ思つてゐたが、そのうちに文平君からまだ四册殘つてゐたと言つて送つてよこして呉れたのを見ると、實際は三十一番まであつて、隱居三十歳の頃から七十餘歳まで、年代から云へば文政九年から明治三年までおよそ四十餘年間に亙る街道生活の日記帳である。それを見ると、御傳馬御改めのことから、飛脚、問屋場附米及び附荷、御救ひ米の賣出し、水損じの見分け、木曾街道の御用出勤、御繼立のことが出てゐて、宗門改めや罪人追放のことも書いてあり、疱瘡に罹つて途中に病死した旅人のことも書いてあり、通行の記事としては、諸大名、御鷹方、大阪御番衆、例幣使、尾州御材木方、寺社奉行をはじめ、公儀御普請役、御奉行道中取締役、各宿日〆帳簿御改め役等の諸公役から、伊勢や善光寺への參詣者、江戸藝者、義太夫語り、長唄の師匠、太神樂なぞの諸藝人、稀には畫師や算術の先生までがあの宿場に入り込んだことも書いてあつて、およそ街道に關することはわたしのやうに宿場全盛の時代を知らないものにも手に取るやうに分る。昭和二年のはじめには、わたしはすでに『夜明け前』の腹案を立ててはゐたが、まだ街道といふものを通して父の時代に突き入る十分な勇氣が持てなかつた。といふのは、わたしの祖父や父が長い街道生活の間に書き殘したものもいろ/\あつたらしいのであるが、日清戰爭前の村の大火に父の藏書は燒けて、參考となる舊い記録とても吾家にはさう多く殘つてゐないからであつた。これなら安心して筆が執れるといふ氣をわたしに起させたのも大黒屋日記であつた。その年にわたしは一夏かゝつて大脇の隱居が殘した日記の摘要をつくり、それから長い仕事の支度に取りかゝつた。
好かれ惡しかれ、わたしたちは父の時代を知らねばならない。それをするには、わたしはやはり『言葉』から入つて行つた。『言葉』から歴史に入ることは、わたしなぞの取り得る眞實に近い方法だ。それを思ふと、おのづから讀み出でた歌や、根氣につけた日記や、その他種々な記録を殘して置いて呉れた過去の人達には感謝しなければならない。
過去をさぐればさぐるほど、平素のわたしたちが歴史上の知識と呼んで來たものも、その實はきはめて曖昧なものであつたことを知る。といふのは、兎角わたしたちは先入主となつた事物の見方に支配され易いからである。『夜明け前』には嘉永六年以來の木曾街道のことが書いてあるから、あの中には參覲交代の諸大名や公用を帶びた御番衆方などの通行の記事がよく出て來るが、やれ何百人からの人足を木曾谷中から寄せただけではまだそれでも手が足りなかつたの何のと、大袈裟なことばかり。ところが、あの地方に殘つた古帳なぞをしらべて見ると、今日わたしたちの考へでは信じ難いやうな事實があり/\ と隱れてゐるのだから驚かれる。
過去が無造作に掘り起せるものでないことは、今度わたしも『夜明け前』を書いて見て、つく/″\それを思ひ知つた。昔は一藩の家老が地方を巡見したといふだけでも、ちよつと今日の尺度《ものさし》にはあてはめられない。どんな遠近法をわたしたちが見つけるにしたところで、それは『言葉』の現實性を目安にする外はないと思ふ。信州埴科新地村の山崎氏方には天保九年度の『御巡見樣御馳走、御役人樣御宿、御書上帳』なるものが殘つてゐる。それは松代藩の家老一行があの地方を巡見した折のことらしいが、その書上帳によると、家老上下三十人(御馬一疋)、使者上下九人(馬一疋)、奉行は道橋奉行の組を合せて上下十九人(馬二疋)、火消三人、足輕衆十人、代官上下五人、醫師上下十二人、祐筆四人、附添勘定上下八人、徒目附上下三人、大工頭八人、小頭二人、道橋元締二人、賄方手代二人、同じく目付三人、先拂と注進〆て六人、飛脚二人、手※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り二十四人、掃除方八人、仲間十四人、張番組十二人、駕籠十八人としてあつて、それに宿方の物貸宿、人馬割場、圍宿、近村の役人宿、馬宿、名主から、御宿詰御勘定亭主役、手代、料理人までが書き出してある。一藩の家老が地方巡見の際にすら、その蔭にはこれほどの人の動きがある。過去に隱れてゐるものはこの類だ。
同じ中仙道筋でも、追分宿には問屋場の他に街道を通過する荷物の貫目御改所なるものが設けてあり、そこには陣屋役人の詰所もあつたやうで、その構造は備後表の縁付《へりつき》の疊を敷いた瓦葺の建家と、葺おろしの下家との二軒より成り、その坪數も三十三坪餘はあつたといふ。これなぞは特別の構造と見てよく、普通中仙道筋の問屋場は二間幅ほどの表入口に三尺の板庇をつけ、入口は障子、敷居下は羽目板にして蹴込みを取りつけ、宿役人の詰所の方も二間四方ばかりあつて、板縁の押入れが取りつけてあつたものらしい。馬籠宿本陣附屬の問屋場の構造も先づそんなところであつたらうと思はれる。
街道筋の宿役人がおよそどんな風に地方の世話をしてゐたかは、追分宿の年寄役をつとめてゐた土屋氏の古帳なぞにその邊の消息が窺はれる。文政六年三月附で、地方諸書類の控として書かれたのは、左のごときものである。
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覺
一 御水帳 四册
一 御割附 十三通
一 御年貢皆濟目録 十三通
一 御林御繪圖面 一
一 御年貢取立帳 十三册
一 宗門人別帳 三册
一 五人組帳 一册
一 村差出明細帳 一册
一 御用留控 一册
一 諸運上取立帳 五册
一 鐵砲水車運上取立帳 三册
一 御林下草永小前割賦帳 一册
一 口訴状寫 一通
一 博奕御觸流町内受書 五通
一 田畑裏印控 一册
一 小前より取置き候書付 二袋
一 御役所御※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]状留書 五册
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右の外、文化九年度の分には、田畑取調帳、田畑反別帳、貯穀小前帳、御檢見内見帳、貧民一件、その他がある。何と言つても水帳はこれらの諸書類の筆頭にあるくらゐだが、徳川時代の末にはさういふ水帳といふものも宿役人の手には渡されず、田畑字附高名寄帳なるものをその代りに渡され、それを水帳と心得て收納の事を勤めたとのことである。筆のついでに、當時の宿役人が藩の諸奉行なぞを案内する折のことを言つて見るなら、普通の場合は羽織に無刀、扇子を差し、村の境目まで出て、そこに控へ、案内すべき人の駕籠の兩側へ二人づゝ附き添ふ心得で、いろ/\指圖を受けるやうにしては勤めたものらしい。
こんなことをこゝに書きつけて見たところで多くの讀者には興味もないかも知れないが、『夜明け前』序の章の第一節にある『水役』といふ言葉一つの意味をさぐるだけにも、ずゐぶんわたしは無駄な骨を折つた。わたしの祖父や父があの街道筋に働いた頃の馬籠宿には、二十五軒の御傳馬役と、三十二軒の水役とのあつたことは確かで、そのことは馬籠の脇本陣であり代々年寄役でもあつた八幡屋の覺帳にも明記してある。ところが誰もあの水役の性質をはつきり知るものがない。徳川林政史研究室の所三男君は例の研究癖から、この水役を問題にして諸方へ問ひ質しなどされたことがあり、わたしはまた冬の季節に當つて木曾山から數多の材木を伐り出す尾州藩時代の作業のことに思ひ合せ、それを小谷狩とか大谷狩とか言ひならはして來たことにも思ひ合せて、あの御嶽山より流れ出る王瀧川その他に出て働く人達の役を、あるひはその役を勤める代りに金錢米穀等を納めさせられる家々のことを水役と言つたかといふ風に想像したこともあつた。七年もかゝつてさがして見た末に、それが傳馬役以外の雜役と解したら一番妥當であらうといふことになつた。この解釋は木曾出身の工學士遠藤於莵君を通して奈良井徳利屋の主人がわたしに答へて呉れたのであつた。過去を探らうとすると、一寸した一例がこんな場合に突き當る。尤も、分らないことは分らないなりに、讀者諸君には讀み過して貰つて、それでいゝ。わたしはその流儀だ。
それにしても、『夜明け前』の中にはわたしの説明不充分で、書いてあることの意味が讀者諸君に通じかねるやうな箇處もすくなくはなからうと思ふ。第一部第六章の一節に、『馬は四分より一疋出す、人足は五分より一人出す』といふところがあるが、あれなぞも一ヶ年の石高百石を標準にすることを斷るべきであつたかも知れない。伊那の谷の方から木曾下四宿へ繼立てを應援し人馬を補充するために出た助郷といふものも、正徳二年の昔までは十六ヶ村であつたが、翌三年には二十八ヶ村に増した。といふのは、正徳三年に尾州公が徳川直屬の代官に代つて木曾福島の關所を預ることになり、したがつて街道筋の繼立てもにはかに頻繁になつたからであつた。それでも當時の伊那助郷は、百石につき人足は四人半、馬は一疋半の程度であつた。天保年度となると、人足だけでも百石につき十七人二分餘の激増を示してゐる。わたしは伊那村民と宿驛との關係にかけて、この助郷のことを重く見て書いた。そして、地方の百姓でも、町人でも、結局繋がるところは交通と深い關係にあることを感じた。
中央公論誌上に年四囘づゝ自作の續稿を發表した折、その都度わたしは他郷の人には耳遠い地方語や、過去に流行しても今日では用ゐ方の異なつて來た言葉や、あるひはすでに死んだ言葉や、その他特殊な言葉を見つけることも多かつたが、それを取りいれて草稿を作る場合にも一々自註を附けては置かなかつた。讀んで見て呉れる方でも、その煩はしさには堪へなからうと思つたからである。第一部第三章の二節目の中にある小谷狩、大谷狩、それから木鼻、木尻の作業なぞの言葉も註なしにはどうであらう。
木
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