は腹の中で繰返した。
 その晩も、彼は独りで壁の方へ向いて、唯九年も前のことを夢みながら、寂しい眠に落ちて行った。

 翌日も矢張同じような日を送って、四日目の朝には伊東から帰ることに成った。もし時が許すなら、山本さんは熱海、伊東ばかりでなく、もっと他の方へ、下田の港へ、それこそ大島までも、お新を連れ廻りたいと思ったが、そう自由には成らなかった。
 伊東の宿で、山本さんは土地の話を聞いた。女を連れて石廊崎《いろうざき》の手前にある洞穴見物に出掛けたという男の話だ。船で見て廻るうちに、男は五百円|懐中《ふところ》に入れたまま、海へ落ちて死んだ。女だけ残った。海は深くて、その男の死骸《しがい》は揚らなかったとか。この話を聞いた時は、山本さんは他事《ひとごと》とも思えなかった。可恐《おそろ》しく成って、お新を連れて、国府津行の汽船の方へと急いだ。
 船が伊東の海岸を離れる頃は、大島が幽《かす》かに見えた。その日は、往《ゆき》の時と違って、海上一面に水蒸気が多かった。水平線の彼方《かなた》は白く光った。そのうちに、ポッと浮いて見えたかと思う大島が掻消《かきけ》すように隠れた。あだかも金を費《つ
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