したものだった。山本さんは今、丁度その気で、船の上から熱海の方の青い海を眺めた。

 何卒《どうか》してお新を往時《むかし》の心地《こころもち》に返らせたいと思って、山本さんは熱海まで連れて行ったが、駄目だった。そこで今度は伊東の方へ誘った。
 翌日の午後は、復た二人は伊東行の汽船の中に居た。
 前の日にも勝《まさ》る好天気だ。二人は楽しい航海を続けることが出来た。海は一層濃く青く見えた。半島の南端では最早《もう》紅い椿《つばき》の花が咲くという程の陽気で、そよそよとした心地の好い南風が吹いて来た。透き徹るような空の彼方《かなた》には、大島も形を顕《あら》わした。
 船房に閉籠《とじこも》っている乗客は少なかった。大概の人は甲板《かんぱん》の上に出て、春らしい光と熱とに耽《ふけ》り楽んだ。
 しばらく山本さんはお新の側を離れて、煙筒の下だの、ぺンキ塗の窓の横だのを歩き廻った。引返してお新の居る方へ来て見ると、彼女は太い綱なぞの置いてあるところに倚凭《よりかか》って、船から陸《おか》の方を眺めていた。横顔だけすこし見える彼女の後姿は、房々とした髪に掩《おお》われた襟首《えりくび》のあたり
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