ことを楽みにして歩いた。
 明るい波濤《なみ》は可畏《おそろ》しい音をさせて、二人の眼前《めのまえ》へ来ては砕けた。白い泡を残して引いて行く砂の上の潮は見る間に乾いた。復た押寄せて来た浪に乗って、多勢の船頭は艀《はしけ》を出した。山本さんもお新も船頭の背中に負《おぶ》さって、艀の方へ移った。騒がしい浪の音の中で、船頭は互に呼んだり、叫んだりした。
 本船に移ってからも、お新は愉快な、物数寄《ものずき》な、若々しい女の心を失わなかった。旅慣れた彼女は、ゼムだの、仁丹《じんたん》だのを取出して、山本さんに勧《すす》める位で、自分では船に酔う様子もなかった。時々彼女は白い絹《きぬ》※[#「※」は底本では「はばへん+白」、179−5]子《ハンケチ》で顔を拭《ふ》きながら、世慣れた調子で談《はな》したり笑ったりした。どうかするとお牧にでも話しかけると同じように話した。
 こういう人の側に、山本さんは遠慮勝に腰掛けて、往時《むかし》お新や異母妹《いもうと》と一緒に菖蒲田の海岸を歩いた時の心地《こころもち》に返った。海は山本さんを九年若くした。あの頃は皆な何か面白いことが先の方に待っているような気の
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