自分を幸福《しあわせ》にすることは無いか。そこから山本さんは思い立って、お新へ宛てた手紙を書いた。凍った土ばかり眺めていたお新が、熱海《あたみ》か伊東あたりの温暖《あたたか》い土地へ、もし行かれるなら行きたいと言っていることは、お牧への話で山本さんも知っていた。お新は産後と言っても時が経っている。嬰児《あかご》は月不足《つきたらず》で産れる間もなく無くなったとか。旅に堪えないというお新でも無いらしかった。
 不取敢《とりあえず》手紙を出した。
 この旅には、彼は一切の費用を自分で持つ積りで、お新に心配させまいと思った。温泉などのある方へ、彼女を誘って行く楽しさを想像した。
 春とは言いながら未だ冬らしい朝が来た。山本さんは部屋にある姿見の方へ行って、洋服の襟飾《えりかざり》を直して見た。僅《わず》かばかりの額の上の髪を撫《な》でつけた。帽子を冠《かぶ》って、旅の鞄《かばん》を提げて、旅舎《やどや》から小川町の停留場へと急いだ。
 朝日は電車の窓に輝き初めた。枯々とした並木を隔てて、銀座の町々は極く静かに廻転するように見えた。
 約束の時間より早く、山本さんは新橋の停車場《ステーション》
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