定《き》まらなかった時、何故結婚を申込まなかったろう。
 こんなことを考えては、旅舎へ戻って来た。彼は今度の帰朝に、支那から相応の貯蓄を持って来ていた。何に費《つか》っても可《い》いような金が二百円ばかりあった。彼女の為とあらば、錯々《せっせ》と働いて得た報酬も惜しくない。どうかしてその金を費おうと思った。

 妹の療治は案外手間取れた。病院の寝台《ねだい》の上に仰《あおむ》きに成ったきり、流血の止るまでは身動きすることも出来なかった。お新は親戚の家から毎日のように見舞に出掛けた。終《しまい》にはお牧の方で気の毒がって、彼女に関わずに置いてくれと言うように成った。
 寝ながら、不動の姿勢を取っているような妹の側で、時々お新と落合って、ありふれた言葉を取換《とりかわ》すというだけでも、山本さんには嬉しかった。これで妹が愈《なお》るとする、退院する、三越あたりで買物して、歌舞伎座の一日も見物すれば、いずれお新は帰って行く人である。太陽は今朝出たと同じように、明日の朝も出るだけの話だ。独りぼっちの人間は何処まで行っても独りぼっちだ。これが人生とすれば、山本さんには堪えられなかった。
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