受けに入院する頃は、お新も東京にある親戚の家へ行った。
急に山本さんは寂しく感じた。どうかすると彼は旅舎の小娘を借りて、近くにある活動写真へ連れて行って、花のような電燈の点《つ》いたり、消えたりする楼上に席を取りながら、独りでそういう心を紛らそうとした。一時に囃《はや》し立てる太鼓、鈴、喇叭《らっぱ》などの騒がしい音楽が沈まった後で、クラリオネットだけ吹奏されるのを聞いていると、その音は灰色な映画の方よりも、むしろ眼前《めのまえ》に居る男や女の方へ彼の心を連れて行った。電燈が明るくなる度に、山本さんは睦《むつ》まじそうな若い夫婦の客を眺めた。後から見える横顔、房々した髪、女らしい首筋、細そりとしかも豊かな肩、そんなものを眺めてはお新に思い比べて見た。山本さんは彼女の形の好い前髪だの、優《やさ》しい頬《ほお》だのを、仮令《たとい》その人がそこに居ないまでも、想像で見ることが出来た。
他人の睦まじさを眺めると、余計に山本さんはそう思って来た。何故九年前には、もっともっと堅く彼女を抱締めなかったろう。何故遠くの方でばかり眺めて置いたろう。彼女が学校を卒業して、未だ何処へ嫁《かたづ》くとも
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