く、南京虫の多い旅舎の床の上に独りで寝たり起きたりして来たのだ。
 今度の東京の旅舎では、山本さんは実の妹ばかりを待受けているのでは無かった。産後の養生かたがた妹に随《つ》いて、寒い方から暖い方へ出掛けて来るというお新をも一緒に待受けた。

 妹のお牧はお新と一緒に翌日《あくるひ》着いた。夕方には二人とも山本さんの旅舎《やどや》で、お牧の方は流行|後《おく》れの紺色のコオトを脱ぎ、お新の方は薄い鼠色のコオトを脱いだ。
「姉さんでもいらっしゃらなければ、一寸《ちょっと》出て来られなかったんです」
 こういう物の言い振からして、お新は大人びて、郷里の方でも指折の大きな家の若い内儀《おかみ》さんらしい、何となくサバケた人に成って来た。
 山本さんは何もかも忘れた様に見えた。幾年振りかでこの人達と一緒に成れたことを心から喜んだ。郷里の方のことを尋ねたり、自分の旅の話を始めたりするうちにも、彼は火鉢《ひばち》の周囲《まわり》に坐っている妹の肥った顔と、丸髷《まるまげ》に成ったお新の顔とを熱心に見比べた。
「しかし、牧も肥ったネ」と山本さんが言出した。
「私は兄さんがもっとオジイサンに成っているかと思っていた」と言ってお牧はお新の方を見て、「男の人というものは、割合に変らないものネ」
「でも、お前、こんなに禿げちゃった」
 こういう山本さんの長く支那の方に居た様子を、お新も眺めて、
「兄さんの禿は往時《むかし》からですよ」
 彼女は若い快活な婦人が笑うように、笑った。
 相変らずお新は山本さんのことを「兄さん」と言うし、お牧のことを「姉さん」と言っている。彼女は嫁《かたづ》いた先の家で、種々《いろいろ》な客にも接するらしい様子で、いやに出娑婆《でしゃば》るでもなく、と言って物にハニカムような風もなく、女らしいうちにもサッパリとした、何処かこう人の気を浮々とさせるようなところが有った。莫迦《ばか》に涙|脆《もろ》かった娘時代の「お新ちゃん」に比べると、別の人に対《むか》い合っているようなこの旧馴染《むかしなじみ》と、それから鼻の故《せい》かして、いくらか頭の重そうな眼付をしている妹とを前に置いて、山本さんは自分が長く居て来た南清地方のことで女に解りそうな奇異な風俗、暮し好い南京の生活の話なぞをして聞かせた。
 二人の女は耳を傾けていた。
「私もネ、貴方《あなた》がたに逢いたいばか
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