船
島崎藤村
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)支那《しな》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)無論|難有《ありがた》くも
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、底本のページと行数)
(例)白い絹《きぬ》※[#「※」は底本では「はばへん+白」、179−5]子《ハンケチ》
−−
山本さん――支那《しな》の方に居る友人の間には、調戯《からかい》半分に、しかし悪い意味で無く「頭の禿《は》げた坊ちゃん」として知られていた――この人は帰朝して間もなく郷里《くに》から妹が上京するという手紙を受取ったので、神田《かんだ》の旅舎《やどや》で待受けていた。唯《たった》一人の妹がいよいよ着くという前の日には、彼は二階の部屋に静止《じっと》して待っていられなかった。旅舎を出て、町の方へ歩き廻りに行った。それほど待遠しさに堪《た》えられなく成った。
東京の町中の四季を語っているような水菓子屋の店頭《みせさき》には、冬を越した林檎《りんご》や、黄に熟した蜜柑《みかん》、香橙《オレンジ》などの貯えたのが置並べてあった。二月末のことで、町々の空気は薄暗い。長いこと東京に居なかった山本さんは、新式な店の飾り窓の前などを通りながら、往来《ゆきき》の人々をよく注意して歩いた。以前には戦争を記念する為の銅像もなく、高架線もなく、大きな建築物《たてもの》も見られなかった万世橋附近へ出ると、こうも多くの同胞が居るかと思われるほど、見ず知らずの男女《おとこおんな》が広い道路を歩いている。風俗からして移り変って来たその人達の中を、彼は右に避《よ》け、左に避けして、旅から自分が帰って来たのか、それとも自分が旅に来たのか、何方《どちら》ともつかないような心地《こころもち》で歩いた。あだかも支那からやって来て、ポツンと東京の町を歩いている観光の客のように。
こうは言うものの、山本さん自身も、何処《どこ》かこう支那人臭いところを帯《も》って帰って来た。大陸風な、ゆったりとした、大股《おおまた》に運んで行くような歩き方からして……
しかし不思議だろうか、山本さんのように長く南清《なんしん》地方に居た人が自然と異なった風土に化せられて来たというは。彼は支那ばかりでなく、最初は朝鮮、満洲へ渡って、仁川《じんせん》へも行き、京
次へ
全14ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング