も同じように彼を呼んで、まるで親身の妹かなんぞのように忸々《なれなれ》しく彼の傍へ来た。
彼は菖蒲田《しょうぶだ》の海岸の方へ娘達を連れて行ったことを思出した。異母妹とお新とは、互に堅く腕を組合せて、泡立ち流れる潮の中を歩いたことを思出した。水浴する白い濡《ぬ》れた着物が娘達の身体に纏《まと》い着いたことを思出した。時々明るい波がやって来ては、処女《むすめ》らしい、あらわな足を浚《さら》ったことを思出した。その頃は娘達の髪はまだ赤かったが、でも異母妹《いもうと》から見ると、麦藁《むぎわら》帽子を脱いだお新の方は余程黒かったことを思出した。
彼はまた、帰校する娘達を送りながら、一緒に上京した時のことを思出した。二日ばかりお新は彼の旅舎に居たことを思出した。
最早《もう》昔話だ。それからもお新は異母妹と一緒に、度々《たびたび》旅舎へ遊びに来たが、彼の方では遠くでばかり眺めていた。彼が二度目に南清行を思い立った頃は、娘達も学校を卒業して、見違えるほど大きく、姉さんらしく成った。殊《こと》にお新の優美な服装は、見送りの為に停車場《ステーション》へ集った都会風な、多くの学友の中でも、際立《きわだ》って人の目を引いた。山本さんも見送りに行って、汽車の窓の外で別れた。
これが愛されたのだろうか。過《すぐ》る年月の間、山本さんが思を寄せた婦人も多かった。不思議にも、そういう可懐《なつか》しい、いとしいと思った人達の面影は、時が経つにつれて煙のように消えて行った。ガヤガヤガヤガヤ夕方まで騒いでいた鳥が、皆な何処へか飛んで行って了うと同じで、後に成って見ると一羽も彼の胸には留っていなかった。唯……九年も前の、それも唯一度の接吻《キス》が残った……
時が経てば経つほど、あの花弁《はなびら》のように開いた清い口唇《くちびる》は活々《いきいき》として記憶に上って来た。何処へ行って、何を為ても、それだけは忘れられなかった。ある時支那の方に居る友達が集って、互に身上話などを始めて、一体山本さんはどうしたんだと言出したものが有ったら、その時彼は自分の一生は片恋の連続だと真面目顔《まじめがお》に答えた。それが一つ話に成って、それから山本さんのことを「頭の禿げた坊ちゃん」と、皆なで言って笑うように成った。そうだ、山本さんは最早二十六にも成る人妻を九年前と同じように眺めて、何を待《まつ》ともな
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