橋行の二等室の内に腰掛けてからも、二人はあまり話す気が無かった。二語《ふたこと》三語《みこと》言っては復た黙って了った。窓から外を見ようとすらもしなかった。揺《ゆす》られ通し船に揺られて、復た汽車に揺られたので、山本さんは居眠りばかりして行った。どうかすると窓の玻璃《ガラス》へ頭を打ちつけた。それほど、身体を支《ささ》えることが出来なかった。新橋へ入ったのは未だ日の暮れない頃であった。何となく頭の上から押しつけられるような、ハッキリと物を考えられない心地《こころもち》で、山本さんは礼を言って車に乗って行くお新に別れた。
この四日の旅で、山本さんはつくづくそう思って来た。玉子色のリボンで髪を束ねていたような娘が、何時の間にか開き発達した胸を持って、その豊かな乳の張ったさまは着物の上からでも想像される程の人に成った。それに比べると、彼は無限に停滞している自身の生活を憐《あわれ》まずにいられなかった。口の悪い支那の方の友達ばかりでなく、ややもすると旧馴染《むかしなじみ》の「お新ちゃん」にすら「頭の禿げた坊ちゃん」なぞと笑われそうな気がして来た。神田の宿へ戻って長く忘れずにいるあの旧い接吻《キス》を考えた時は、山本さんは泣くことも出来ないほど悲しく成った。
それから二日ばかり経つと、お牧も無事に退院して、復た山本さんの方へ来た。
「どうでした、伊豆の旅は」とお牧は何度も同じことを兄に尋ねた。
「実に好かった……そりゃ、お前、近頃に無い好い旅だった……」
「私もお新ちゃんから、散々羨ましがらせられた……そのかわり、兄さんには歌舞伎座を奢《おご》って頂きますよ」
こういうお牧は、そう長くユックリしてもいられない人だった。
芝居見物の晩から、お新もお牧に随いて山本さんの旅舎《やどや》の方へ一緒に成った。いよいよ女連《おんなれん》が郷里《くに》へ向けて発《た》つという日には、山本さんは朝から静止《じっと》していなかった。支那土産の縮緬《ちりめん》の他に、東京で買った物まで添えて、隣座敷へ行って見ると、お新だけ居た。
お新は心から気の毒そうな顔付で、山本さんがそこへ出した物を受かねていた。
「あんなに諸方《ほうぼう》へ連れてって頂いたんですもの……」と彼女が言った。
「いえ、旅の記念として取っといて下さい。恥をかかせるものじゃないと言います……ホラ、私が支那へ行く前に、貴
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