は腹の中で繰返した。
その晩も、彼は独りで壁の方へ向いて、唯九年も前のことを夢みながら、寂しい眠に落ちて行った。
翌日も矢張同じような日を送って、四日目の朝には伊東から帰ることに成った。もし時が許すなら、山本さんは熱海、伊東ばかりでなく、もっと他の方へ、下田の港へ、それこそ大島までも、お新を連れ廻りたいと思ったが、そう自由には成らなかった。
伊東の宿で、山本さんは土地の話を聞いた。女を連れて石廊崎《いろうざき》の手前にある洞穴見物に出掛けたという男の話だ。船で見て廻るうちに、男は五百円|懐中《ふところ》に入れたまま、海へ落ちて死んだ。女だけ残った。海は深くて、その男の死骸《しがい》は揚らなかったとか。この話を聞いた時は、山本さんは他事《ひとごと》とも思えなかった。可恐《おそろ》しく成って、お新を連れて、国府津行の汽船の方へと急いだ。
船が伊東の海岸を離れる頃は、大島が幽《かす》かに見えた。その日は、往《ゆき》の時と違って、海上一面に水蒸気が多かった。水平線の彼方《かなた》は白く光った。そのうちに、ポッと浮いて見えたかと思う大島が掻消《かきけ》すように隠れた。あだかも金を費《つか》って身を悶《もだ》えながら帰って行く山本さんに対《むか》って、「船旅も御無事で」と告別《わかれ》の挨拶でもするかのように……
戻りには何処へも寄らなかった。唯、汽船が荷積の為に港々へ寄って行くのを待つばかりで。
一日乗ると船にも飽きた。飲食《のみくい》するより外に快楽《たのしみ》の無いような船員等は、行く先々で上陸する客を羨《うらや》んだ。港の岸に見知った顔でもあると、彼等は艀《はしけ》から声を掛けて、それから復た本船の方へ漕《こ》ぎ戻った。船は嫌いで無い方の山本さんにも、次第に単調な蒸気の音が耳につくように成った。乗客はいずれも船室の内に横に成って、寝られないまでも寝て行こうとした。お新もすこし疲れたらしく、白足袋|穿《は》いた足なぞを投出し、顔へは薄い絹《きぬ》※[#「※」は底本では「はばへん+白」、182−17]子《ハンケチ》をかけていた。
こんな風にして国府津へ近づいた。船旅を終る頃には、お新は熱海や伊東の話を持って、東京に居るお牧の方へ早く帰りたいという様子をした。
汽船は国府津へ着いた。乗客は争って艀に乗移った。山本さんも、お新も、陸を指《さ》して急いだ。
新
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