処まで行っても山本さんは極くありふれた話しか出来なかった。ややしばらくの間、二人とも黙って了って、窓の外の景色を眺めていることもある。復た話が始まる。日本に比ベると、彼地《むこう》では豚の肉が驚くほど廉《やす》いとか……鶏卵が一個何程で求められるとか……それを聞くと、お新は世間の内儀《おかみ》さんが笑うと同じように、楽しそうに笑った。
二人は国府津で下りた。そこまで行くと余程|温暖《あたたか》だった。停車場の周囲《まわり》にある建物の間から、二月の末でも葉の落ちないような、濃い、黒ずんだ蜜柑畠《みかんばたけ》が見られる。寒い方からやって来たお新は暖国らしい空気を楽しそうに呼吸した。彼女は山本さんと一緒に、明るい日あたりを眺めながら、停車場前の旅舎《やどや》の方へ歩いて行った。
優美なお新の風俗は人の眼を引き易《やす》かった。湯治場行の客らしい人達の中には二人の方を振返って、私語《ささや》き合っているものも有った。夫婦らしく見えるということが、山本さんの顔をすこし紅くさせた。
旅舎へ行って、熱海行の船を待っている間にも、女中がこんなことを言った。
「奥さん、船の切符を買わせましょうですか」
山本さんは笑って、「これは奥さんじゃないよ――妹だよ」
お新も笑った。この笑が反って女中を半信半疑にさせた。女中は、よくある客の戯れと思うかして、「御串談《ごじょうだん》ばかり」と眼で言わせて、帯の間から巾着《きんちゃく》を取出そうとするお新の様子をじろじろ眺めた。
山本さんはお新に金を費わせまいとした。彼女が出す前に、彼は上等の切符の代を女中の前に置いた。
「兄さん、それじゃ反《かえ》って困りますわ」
とお新が言った。
山本さんは聞入れなかった。汽車代から何からお新の分まで、一切彼の方で持った。金のことにかけては細《こまか》い山本さんが、この旅には出さなくとも済むようなところまで出して、一寸寄って昼飯を食った旅舎の茶代までうんと奮発した。汽船の出る時が来た。伊豆の港々へ寄って行く船だ。二人は旅舎の前の崖《がけ》を下りて、浪打際《なみうちぎわ》の方まで下りた。踏んで行く砂は日を受けて光るので、お新は手にした洋傘《こうもり》をひろげた。日に翳《かざ》した薄色の絹は彼女の頬のあたりに柔かな陰影《かげ》を作った。山本さんは又、旧いことまで思出したように、彼女と二人で歩く
前へ
次へ
全14ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング