定《き》まらなかった時、何故結婚を申込まなかったろう。
 こんなことを考えては、旅舎へ戻って来た。彼は今度の帰朝に、支那から相応の貯蓄を持って来ていた。何に費《つか》っても可《い》いような金が二百円ばかりあった。彼女の為とあらば、錯々《せっせ》と働いて得た報酬も惜しくない。どうかしてその金を費おうと思った。

 妹の療治は案外手間取れた。病院の寝台《ねだい》の上に仰《あおむ》きに成ったきり、流血の止るまでは身動きすることも出来なかった。お新は親戚の家から毎日のように見舞に出掛けた。終《しまい》にはお牧の方で気の毒がって、彼女に関わずに置いてくれと言うように成った。
 寝ながら、不動の姿勢を取っているような妹の側で、時々お新と落合って、ありふれた言葉を取換《とりかわ》すというだけでも、山本さんには嬉しかった。これで妹が愈《なお》るとする、退院する、三越あたりで買物して、歌舞伎座の一日も見物すれば、いずれお新は帰って行く人である。太陽は今朝出たと同じように、明日の朝も出るだけの話だ。独りぼっちの人間は何処まで行っても独りぼっちだ。これが人生とすれば、山本さんには堪えられなかった。
 もっと自分を幸福《しあわせ》にすることは無いか。そこから山本さんは思い立って、お新へ宛てた手紙を書いた。凍った土ばかり眺めていたお新が、熱海《あたみ》か伊東あたりの温暖《あたたか》い土地へ、もし行かれるなら行きたいと言っていることは、お牧への話で山本さんも知っていた。お新は産後と言っても時が経っている。嬰児《あかご》は月不足《つきたらず》で産れる間もなく無くなったとか。旅に堪えないというお新でも無いらしかった。
 不取敢《とりあえず》手紙を出した。
 この旅には、彼は一切の費用を自分で持つ積りで、お新に心配させまいと思った。温泉などのある方へ、彼女を誘って行く楽しさを想像した。
 春とは言いながら未だ冬らしい朝が来た。山本さんは部屋にある姿見の方へ行って、洋服の襟飾《えりかざり》を直して見た。僅《わず》かばかりの額の上の髪を撫《な》でつけた。帽子を冠《かぶ》って、旅の鞄《かばん》を提げて、旅舎《やどや》から小川町の停留場へと急いだ。
 朝日は電車の窓に輝き初めた。枯々とした並木を隔てて、銀座の町々は極く静かに廻転するように見えた。
 約束の時間より早く、山本さんは新橋の停車場《ステーション》
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