「こと人も訪《たず》ねずに引籠《ひっこ》みきりでいた彼は、神田へも行き、牛込《うしごめ》へも行った。京橋へも行った。本郷へも行った。どうかして節子の身体がそれほど人の目につかないうちに支度を急ぎたいと願っていた。
「一度は欧羅巴《ヨーロッパ》を見ていらっしゃるというのも可《よ》かろうと思いますね。何もそんなにお急ぎに成る必要は無いでしょう――ゆっくりお出掛になっても可《い》いでしょう」
番町の方の友人が岸本の家へ訪ねて来てくれた時に、その話が出た。この友人は岸本から見ると年少ではあったが、外国の旅の経験を有《も》っていた。
「思い立った時に出掛けて行きませんとね、愚図々々してるうちには私も年を取ってしまいますから」
こう岸本は言い紛らわしたものの、親切にいろいろなことを教えてくれる友人にまで、隠さなければ成らない暗いところのある自分の身を羞《は》ずかしく思った。
まだ岸本は兄の義雄に何事《なんに》も言出してなかった。留守中の子供の世話ばかりでなく、節子の身の始末に就《つ》いては親としての兄の情にすがるの外は無いと彼も考えた。しかしながら、日頃兄の性質を熟知する岸本に何を言出すことが出来よう。義雄は岸本の家から出て、母方の家を継いだ人であった。民助と義雄とは同じ先祖を持ち同じ岸本の姓を名のる古い大きな二つの家族の家長たる人達であった。地方の一平民を以《もっ》て任ずる義雄は、家名を重んじ体面を重んずる心を人一倍多く有っていた。婦女の節操は義雄が娘達のところへ書いてよこす何よりも大切な教訓であった。こうした気質の兄から不日上京するつもりだという手紙を受取ったばかりでも、岸本は胸を騒がせた。
「お前のお父さんが出ていらっしゃるそうだ」
それを岸本が節子に言って聞かせると、彼女は唯《ただ》首を垂《た》れて、悄《しお》れた様子を見せていた。でも彼女が割合に冷静であることは岸本の心をやや安んじさせた。
旅の支度に心忙しく日を送りながら今日見えるか明日見えるかと岸本が心配しつつ待っていた兄は名古屋の方から着いた。
三十一
「や。どうも久しぶりで出て来た。今|停車場《ステーション》から来たばかりで、まだ宿屋へも寄らないところだ。今度は大分用事もあるし、そうゆっくりしてもいられないが――まあ、すこし話して行こう。子供も皆丈夫でいるかね」
義雄は外套《が
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