「とう》を脱ぎながらもこんな話をして、久しぶりで弟を見るばかりでなく、娘をも見るという風に、そこへ来て帽子や外套を受取ろうとする節子へも言葉を掛けた。
「節ちゃんも相変らず働いてるね」
 それを聞くと、岸本は何事《なんに》も知らずにいる兄の顔を見ることさえも出来なかった。久しぶりで上京した人を迎え顔に、下座敷の内をあちこちと歩き廻った。
「どれ、お茶の一ぱいも御馳走《ごちそう》に成って行こう」
 と言いながら、勝手を知った兄は自分から先に立って二階の座敷へ上った。この兄と対《むか》い合って見ると、岸本は思うことも言出しかねて、外国の旅の思立ちだけしか話すことが出来なかった。留守中の子供のことだけを兄に頼んだ。「そいつは面白いぞ」と義雄は相変らずの元気で、「俺《おれ》の家でもこれから大いに発展しようというところだ。近いうちに国の方のものを東京へ呼ぶつもりでいたところだ。貴様が家を見つけて置いてくれさえすれば、子供の世話は俺の方で引受けた」
 義雄の話は何時《いつ》でも簡単で、そしてテキパキとしていた。
 十年振りで帰国した鈴木の兄の噂《うわさ》、台湾の方の長兄の噂などにしばらく時を送った後、義雄は用事ありげに弟の許《もと》を辞し去る支度した。仮令《たとえ》この兄の得意の時代はまだ廻って来ないまでも勃々《ぼつぼつ》とした雄心は制《おさ》えきれないという風で、快く留守中のことを引受けたばかりでなく、外国の旅にはひどく賛成の意を表してくれた。
 兄は出て行った。岸本は節子を呼んで、兄の話を彼女に伝え、不安な彼女の心にいくらかの安心を与えようとした。
「でも、お前のことを頼むとは、いかに厚顔《あつかま》しくも言出せなかった――どうしても俺には言出せなかった」
 と岸本は嘆息して言った。
「もしお前のお母《っか》さんが国から出ていらしったら、さぞびっくりなさるだろう」
 と復《ま》た彼は附添《つけた》した。
 弟の外遊を悦《よろこ》んでくれた義雄の顔は岸本の眼についていた。自己の不徳を白状することを後廻しにして、留守中の子供の世話を引受けて貰《もら》ったでは、欺くつもりもなく兄を欺いたにも等しかった。岸本はこの旅の思立ちが、いかに兄を欺き、友を欺き、世をも欺く悲しき虚偽の行いであるかを思わずにいられなかった。そして一書生の旅に過ぎない自分の洋行というようなことが大袈裟《おおげさ
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