tに成れば成るだけ、余計にその虚偽を増すようにも思い苦しんだ。出来ることなら人にも知らせずに行こう。日頃親しい人達にのみ別れを告げて行こう。すくなくも苦を負い、難を負うことによって、一切の自己《おのれ》の不徳を償おう、とこう考えた。それにしても、いずれ一度は節子のことを兄の義雄だけには頼んで置いて行かねば成らなかった。それを考えると、岸本は地べたへ顔を埋めてもまだ足りないような思いをした。
三十二
春の近づいたことを知らせるような溶け易《やす》い雪が来て早や町を埋めた。実に無造作に岸本は旅を思い立ったのであるが、実際にその支度に取掛って見ると、遠い国に向おうとする途中で必要なものを調《ととの》えるだけにも可成《かなり》な日数を要した。
眼に見えない小さな生命《いのち》の芽は、その間にそろそろ頭を持上げ始めた。節子の苦しみと悩みとは、それを包もう包もうとしているらしい彼女の羞《はじ》を帯びた容子《ようす》は、一つとして彼女の内部《なか》から押出して来る恐ろしい力を語っていないものはなかった。あだかも堅い地を割って日のめを見ないでは止《や》まない春先の筍《たけのこ》のような勢で。それを見せつけられる度《たび》に、岸本は注文して置いた旅の衣服や旅の鞄《かばん》の出来て来るのを待遠しく思った。
ある日、岸本は警察署に呼出されて身元調を受けて帰って来た。これは外国行の旅行免状を下げて貰うに必要な手続きの一つであった。節子は勝手口に近い小座敷に立っていて、何となく彼女に起りつつある変化が食物の嗜好《しこう》にまであらわれて来たことを心配顔に叔父に話した。
「婆やにそう言われましたよ。『まあ妙な物をお節ちゃんは食べて見たいんですねえ』ッて――梅干のようなものが頂きたくて仕方が無いんですもの」
こう節子は顔を紅《あか》めながら言った。彼女はまた、婆やに近くいて見られることを一番恐ろしく思うとも言った。
岸本はまだ二人の子供に何事《なんに》も話し聞かせて無かった。幾度《いくたび》となく彼は自分の言出そうとすることが幼いものの胸を騒がせるであろうと考えた。その度に躊躇《ちゅうちょ》した。
「泉ちゃん、お出《いで》」
と岸本は夕飯の膳《ぜん》の側へ泉太を呼んだ。
「繁ちゃん、父さんがお出ッて」
と泉太はまた弟を呼んだ。
二人の子供は父の側に集った。旅を
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